エイプリル・フール、「戦艦大和」の吉田満に会う(三)
【連載第十七回】
平山周吉(ひらやま・しゅうきち)
小林と新潮社をつないだキーパーソン、斎藤十一
文語体ではなく口語体になっているとはいえ、「創元」に載る予定だった原稿が形を変えて「新潮」に掲載された事情は何か。この作品については吉田満は語っていないので、想像するしかない。吉田は「占領下の「大和」」の中で、ラジオ番組で「戦艦大和の最期」が紹介されるはずだったと述べている。「その間ラジオで予定した、河盛好蔵氏の新刊紹介が、二度にわたって中止を命じられるというようなこともあった」と。河盛好蔵はフランス文学者で、評論家だが、この時期は新潮社で「新潮」の編集顧問をつとめていた。河盛の強い推薦が当然考えられる。それともうひとつは編集長の斎藤十一だ。斎藤は「週刊新潮」と写真週刊誌「フォーカス」を成功させた人物である。「人殺しの顔を見たくないか」が斎藤の編集信条だ。この斎藤十一は戦後ずっと、小林秀雄と新潮社の強い関係のキーパーソンであった。小林の全集が創元社から新潮社へと移るように、「本居宣長」の連載が延々と「新潮」で続いたように。戦前戦中の小林は新潮社との関係は薄かった。それが強まるのは斎藤十一編集長時代からで、湯川秀樹との対話「人間の進歩について」(「新潮」昭和23・8)が一挙掲載される。この対話は細川宗吉「戦艦大和」よりも遅れるが、「戦艦大和」掲載にも小林の関与か、少なくとも小林の黙認があったと考えるほうが自然だろう。斎藤十一は「芸術新潮」を昭和二十五年(一九五〇)に創刊すると、中心的な書き手として小林秀雄を起用した。