田嶋幸三×三森ゆりか 一流企業も採用「世界標準の母語教育」(下)
正解を探す教育をやめよう
─最後に、今回の特集の主題である高等学校の国語教育改革についてお尋ねします。新たな選択科目「文学国語」「論理国語」等の導入に対して、どう評価しますか。
三森 その前に、そもそも日本の国語教育は世界的に見て非常に特殊であって、大きな課題を抱えているのではないか、と私は考えています。日本では母語教育の位置づけが曖昧です。本来母語教育とは、すべての学問や社会生活の要になる重要な土台ですが、その認識が残念ながら希薄なんですね。日本では国語といえば漢字学習と試験に解答するための教育が中心で、大学を卒業しても読む・書く・話す・聞く技能をきちんと学べないまま社会へ出てしまうという現実があるようです。
一方、ドイツをはじめとした欧米諸国、南米やオセアニア、アジアの英語圏などでは、言葉を技術として捉え幼稚園から高校卒業まで体系的に言語技術の力を磨きます。議論や作文、読解の方法論を身に付けてから社会へ出て行くわけです。言語技術の源流はソクラテス、イソクラテス、プラトンらの古代ギリシャにさかのぼります。雄弁術、弁論術、修辞術といったものが教育の形式になり、ローマ帝国を経てヨーロッパ全体へと広がっていったのです。
そうした「世界標準の母語教育」のあり方と、日本の国語教育との相違を、今こそしっかり認識すべきだし、その上で本質的な議論を重ねて何が問題かをはっきりさせ、制度改革をすべきだろうと私は思います。
しかし、もしそれをしないまま本当に二〇二二年から新指導要領が導入されると、すぐ役立ちそうに見える実用文を使った「論理国語」ばかりが選択され、文学や古典を選ぶ人は激減するでしょう。私はそれを本当に危惧しています。文学や哲学というものは人間形成にとって不可欠であり決して軽視してはならないはずです。
田嶋 僕は教育制度改革についてはあまり詳しくありませんが、まず「文学国語」と「論理国語」に分けるという発想には懐疑的ですね。例えば博士号の「Ph.D.」は、まさにドクター・オブ・フィロソフィーのこと。学問の土台に哲学があることを示しています。日本では哲学や文学と、論理や科学とは別、と考えがちだけれど、欧米ではどの科目もフィロソフィーがベースになっている、ということは当たり前です。
三森 文学や哲学を重視する傾向はアメリカでも顕著です。例えば高校のカリキュラムは「言語技術」と「文学」に分かれています。言語技術とは言語に関するスキルを教える包括的な内容なので、文法も表現も、もちろん文学も、言語技術の中の一部と言えますが、「文学」をわざわざ別枠にして扱うくらい、人間の学ぶべき重要な要素だとアメリカでは考えているわけです。
田嶋 フランスのバカロレア(大学など高等教育機関に入学する資格及びその国家試験)では「哲学」がとても重視されていて、高校生が哲学の問題を何時間もかけて解く。哲学的課題について自分の考えを論述する。それが国家の実施する試験の中身です。つまり、人間のベースとなる教養の中に文学や哲学がしっかりと根付いている証なんだろうと思う。
三森 一方で、残念ながら日本では文学や哲学を役に立たないものとして扱う傾向があります。また、日本では「文学を論理的に読み解く」という捉え方自体がないようです。私にしてみれば、文学と論理とを別ものとして分けてしまう方がおかしいと思うのですが。例えば、文学の中の登場人物の誰それさんは、こう考えた。それはなぜか。なぜなら......という分析をすれば、それはまさしく論理です。つまり、文学であろうが詩であろうが契約書だろうが、すべて論理的に分析できるし、そもそも論理がなければ文章そのものも成り立ちません。論理とは言葉を秩序立てて組み合わせて作りあげるものですから。
田嶋 それに日本の大学入試はバカロレアのような「考える論述」がほとんどないでしょう。例えば四つのうちから正解を一つ選びなさい、といったスタイルで、正解は一つしかない。それを探すような教育が目立ちますよね。となると「答が合っているかどうか」ばかり気にしてしまう。
三森 とにかく選択肢の中から一つを選べばいいし、正解の理由について深く考える必要がない。あるいは穴埋め方式。それが日本の受験の出題スタイル。こんな教育を続けていけば、自分の頭で考える癖は付きません。単に入試にパスするための正解を見つける方法を獲得することに終始する結果になってしまいます。
田嶋 少し話は飛びますが、関連してJリーグの開幕時(一九九三年)のことを思い出しました。一〇チームのうち八割が日本人の監督でスタートし、三年目にチーム数が一四まで増えた時、なぜか日本人監督は全体の二割にまで減っていました。川淵三郎キャプテン(当時)から「日本人指導者を養成してくれ」と言われた僕は、日本人指導者が減った理由を調べてみたのです。すると、原因が見えてきました。アマチュア時代の監督は会社の上司だから、監督に対して言い返す選手なんていなかった。監督は絶対の存在で指示に従うのが当たり前。一方、プロになって、外国人選手が入ってくると、彼らは指示に対して「なぜそうするのか」と質問してくる。疑問があればぶつけてくる。監督はそういった疑問や反論に対して言葉で説得しなければならない。そうした環境に耐えられなくて日本人監督が減ってしまったのです。これも、深く考える習慣を育んでこなかった日本の教育の結果かもしれません。
今の例を教訓にした時、いろいろな考え方に触れて、違う意見を持つ人と議論したりする機会が非常に少ないことが問題なのではないでしょうか。正解を探すだけだと、課題をさまざまな角度から捉えたり分析したりすることにつながらない。言語技術教育はそうしたスキルを身に付けるための訓練になりますね。
三森 私がアカデミーで教えた最初の生徒の佐藤令治さん(JFAアカデミー福島一期生)は今、アカデミー福島で女子のコーチをしていますが、インタビューの中で「アカデミーの六年間で印象に残っていること」について「一番はコミュニケーションスキル(言語技術)です。社会人になってからも必要性を強く感じます」「卒業後にすぐ海外(メキシコ)に行ったので、自分の意見を伝えたり、主張できることは大きなアドバンテージでした」(『JFA news』二〇一九年九月号)と答えています。彼の人生に言語技術が役立って私は嬉しいですし、世界を視野に入れた時、言語技術が必要な理由を、この言葉が端的に語ってくれているように私は思います。
構成:山下柚実
〔『中央公論』2021年3月号より〕
三森ゆりか
社会で真に求められるのは、論理的思考力を活用して考察し、口頭や記述で表現できる人材である。しかし「国語」の教育は受けたはずなのに、報告書が書けない、交渉も分析もできないという社会人は多い。これまで有名企業や日本サッカー協会などで「言語技術」を指導してきた著者が、社会に出てから使える本当の言語力=世界基準のコミュニケーション能力を身につけるためのメソッドを具体的に提示。学生・ビジネスパーソン必読の一冊!
1957年熊本県生まれ。筑波大在学中にサッカー日本代表に。卒業後、古河電工入社。83~86年ケルンスポーツ大学に留学し西ドイツサッカー指導者B級ライセンス取得。筑波大学大学院修士課程体育研究科修了。2001年U-17日本代表監督として世界大会出場。JFA技術委員会委員長として日本代表の強化、JFAアカデミー福島スクールマスターとして若年層の育成に取り組んできた。15年よりFIFA理事(カウンシルメンバー)。16年よりJFA会長。
◆三森ゆりか〔さんもりゆりか〕
東京都生まれ。上智大学外国語学部ドイツ語学科卒業。中学2年生から4年間を旧西ドイツで過ごす。1984~88年ドイツ式作文教室を主宰。90年「つくば言語技術教育研究所」開設。これまでに日本サッカー協会、修造チャレンジ、日本航空、JR東日本、JR西日本などで講習・研修を手がける。『絵本で育てる情報分析力』『外国語を身につけるための日本語レッスン』『大学生・社会人のための言語技術トレーニング』など著書多数。