連載 大学と権力──日本大学暗黒史 第5回

森功(ノンフィクション作家)

 秋田明大と田中英壽

日大全共闘を率いた秋田明大もまた彼らと同年代だ。65年3月に広島県の崇徳高校を卒業して日本大学経済学部に入学した。2年生になった66年に「社会科学研究会」(社研)というマルクス・レーニン主義研究のサークルに入り、4年生になる68年、20億円を超える日大職員の不正経理問題に直面し、学生運動に没頭する。この年の5月27日、日大全学共闘会議議長となって、大学本部と衝突していった。

秋田は68年9月、両国の日大講堂で2万5000人の学生を率いて会頭の古田を糾弾し、団体交渉の要求などを飲ませた。1970年の日米安全保障条約延長を前に、日大に限らず左翼学生たちによる運動は全国に広まっていったが、秋田自身は69年3月、公務執行妨害などの容疑で警視庁に逮捕される。小菅にある東京拘置所で東大全共闘の山本義隆といっしょになったという。

日大では、全共闘議長の秋田が逮捕されたあとも学生たちの運動は衰えることなく、大学当局は手を焼いた。秋田は12月に保釈されるとさらに先鋭化し、会頭の古田は退陣に追い込まれた。

機動隊をはじめとした捜査当局ならびに運動部を盾にした大学当局と日大全共闘との衝突が激化するこの間、田中英壽は69年3月に経済学部経済学科を卒業し、農獣医学部の体育助手兼相撲部コーチとなる。すると、大学職員として左翼学生たちに立ちはだかった。田中と同年の日大全共闘メンバー、森雄一が振り返る。

「彼は日大に職員として残り、配属になった日大農獣医学部はアウシュビッツ校舎と呼ばれていました。大学当局側がバリケードを張って封鎖し、そこに右翼部隊が常駐して学生を排除していったのです。そのなかでも先鋭的だったのが関東軍でした。戦中の関東軍をもじって6810月に設立され、芸術学部の学生が襲われたこともありました」

日大では70年安保闘争後も左翼学生たちの運動が続き、大学当局はその対抗策を講じていった。田中たち運動部の出身者が次々と大学職員となっていくなか、関東軍は他の大学の運動部員、さらに暴力団関係者まで加えて結成され、日大全共闘の封じ込めを図った。

「われわれは68年9月30日のいわゆる9・30団交で、古田体制を追い込み、団交を認めさせて大学当局に勝利したはずでした。それが10月になって佐藤栄作の一言で白紙に戻されてしまう。その後はしばらく互いの活動が小康状態に陥るブランクができました。次にどのような運動をするか、準備段階として活動を小休止していました。それは当局側も同じで、その間、関東軍をはじめとした右翼部隊がつくられていったのです」

森の言葉に熱がこもる。

「実は関東軍は、住吉連合会(現・住吉会)がかかわっていました。経済学部出身で元応援団の南洋(仮名)が学生課の課長となって校友会の幹事まで務めていましたが、69年の記録を見ると、住吉の南と名前が残っているではないですか。大学当局が授業を再開したとき、農獣医学部の校舎を守るため、彼らを使ったのは間違いありません。彼は学内に事務所を持っていて、やがてあちこちの学部を襲うようになった。そうして動員された右翼部隊は関東軍だけではなく、サクラ親衛隊、桜魂会と呼ばれる過激なところもありました」

田中英壽はそこにどうかかわるのか。

「日大では、古田重二良会頭から鈴木勝総長にトップが変わり、70年以後も学生運動が続いていきました。そこで田中は農獣医学部の職員として、認められていったわけです。その一方で2000年には運動部を所管する保体審(保健体育審議会)の事務局長をやるまでになる。のちに田中とヤクザとの付き合いが明るみになりましたけれど、それは田中がわれわれを弾圧してきた実績のなかで培われていったのでしょう」

田中が学内で成り上がる第一歩

1903(明治36)年生まれの鈴木勝は、27(昭和2)年3月に日大専門部歯科を卒業し、専門部歯科助教授や歯学部教授、歯学部長、理事、学長ととんとん拍子に出世していった。古田退任した後の69年に第6代総長就任し、やがて理事長を兼務して長期政権を築くようになる。

もっとも大学運営という面では、さして鈴木の評価は高くない。日本一の学生数を誇るマンモス学校法人の礎を築いたのは、やはり古田重二良であり、鈴木は拡大路線に乗って長いあいだトップの椅子に座ってきたにすぎない。それが多くの日大関係者の評価だ。

そしてこの鈴木体制の下、田中英壽は職員として着実に力をつけ、首脳陣に認められるようになる。田中が成り上がる初めの段階が、相撲部員や主将、コーチとして左翼学生を抑え込んできた実績であり、その次が保体審の事務局長として運動部を束ねてきた時期であろう。ある元田中側近の教授が指摘する。

「相撲部やアメフト部をはじめとする日大の運動部は保体審の下にぶら下がってきました。本来、大学の運動部は教学部門の一環として置かれていて、サークルなどは学生部が管理してきたけれど、日大では本部直結の保体審が管理、監督下に置いてきました。アメフト部の悪質タックル問題が起きたあと、その保体審を競技スポーツ部に衣替えし、教学の部門に持ってきた経緯があります。ただ、実態は田中理事長に直結してきたので、そう変わっていませんでした」

田中の大きな力の源の一つが、この保体審や競技スポーツ部が管理、監督する日大運動部にあったことは間違いない。先の薬物事件では、競技スポーツ部の部長が問題視されたのは周知の通りだ。

そして田中の最大の武器となるのが、日大OBの集う校友会である。校友会会長に就いた田中英壽は、やがて自らの帝国づくりを始めた。(敬称略、つづく)

森功(ノンフィクション作家)
1961年福岡県生まれ。ノンフィクション作家。岡山大学文学部卒業。新潮社勤務などを経て2003年に独立。2018年、『悪だくみ 「加計学園」の悲願を叶えた総理の欺瞞』で大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞受賞。『地面師 他人の土地を売り飛ばす闇の詐欺集団』『官邸官僚 安倍一強を支えた側近政治の罪』『鬼才 伝説の編集人 齋藤十一』『国商 最後のフィクサー葛西敬之』など著書多数。
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