大澤 聡「リアルであれとメディアはいう――流行のSNS「BeReal.」の秘密にせまる」

大澤 聡(批評家、近畿大学准教授)
写真提供:photo AC
 10代の若者のあいだで流行する「BeReal.」。「リアルであれ」を意味するこのSNSの人気は、1920年代から30年代日本の文学シーンと重なるところがあるという。批評家の大澤聡氏が論じる。
(『中央公論』2024年9月号より抜粋)

エビデンスと「私」

 日本では1990年代後半あたりに起源をもつエビデンス主義、たとえば「データを出せ!」「ソースを示せ!」「ファクトで語れ!」といった圧力があいかわらず社会のあちこちを覆っています。かつてはアイロニカルな放言や戯言(ざれごと)の解放区だったネット空間においてさえ、いまやそうなのです。

 科学哲学者のリー・マッキンタイアが『エビデンスを嫌う人たち』(原書2021年)で指摘するように、科学的な根拠そのものへの不信ムードも局所的に生じてはいるものの、それもまたエビデンス主義と裏と表の関係にある現象でしょう。

 ニセでもクズでも、とにかく眼に見えるエビデンスがあるという手続きさえ整っていればよいのだと、おそろしく事務的で形式主義的で、おまけに権威主義的で、およそ厳密性を欠いたエビデンス信仰ですから、なおのこと、たちが悪い。自己判断の責務を放棄したいというのがその実相です。

 けれど同時に、現代は極私的な言葉が尊重される時代でもある。とりかえのきかない唯一無二のこの「私」の体験や実存をやさしく社会がくるむ。いや、一見やさしそうでありながら、ことによっては、古くは文化相対主義、最近ならダイバーシティの美名のもと、個を尊重すると見せかけて、たんに自己責任論めいた放置へと反転するかもしれない。とすれば、殺伐とした無縁社会あるのみでしょう。ともあれ、そこに横たわるモードを当事者至上主義といってみましょうか。これも直接には90年代後半に起源がある。

 ジャーナリズムの世界でいえば、一方ではたっぷりの註とデータで武装した専門的な学術論文に社会から理解をともなわない信頼がよせられ、他方では等身大の日常生活から練りあがるメチエを小気味よくつづったエッセイ、作者のアイデンティティを前面に出した小説が幅をきかす。

 前者は、社会的な事件がおきたとき、テレビや新聞にひっぱり出される識者の傾向をかえることにもつながりました。後者は、「スカッと」する「深イイ」実話を再現したバラエティ番組の志向が報道番組へも流れ込む事態とぴったり相即しています。あるいは、新聞の紙面に増殖する「エモい記事」(ⓒ西田亮介)を例にあげてみてもいい。

 一方にエビデンス主義(学術論文、学者コメント)。他方に当事者至上主義(エッセイブーム、エモ記事)。客観的なデータと、主観的なこの私......。一見、両者は対極に位置しています。ところが、それぞれ離れた場所からぐるりと半周ずつ回って、おなじ箱におさまるんじゃないでしょうか。そう、リアリズムという一点において。

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