2014年、日本創成会議・人口減少問題検討分科会(増田寛也座長)は「消滅可能性都市」を発表。出産年齢といわれる「若年女性(20〜39歳」の人口が2010年から2040年にかけて5割以下に減少する自治体を「消滅可能性」があるとしてリストアップしたところ、全国自治体の約半数となる896が該当する事態となった。このとき、東京23区で唯一「消滅可能性都市」となったのが豊島区だ。その豊島区が、それからどのように消滅危機からの「脱却」を図ったのか、高野之夫区長に訊いた。
- 手ごたえを感じたときにやってきた「消滅可能性都市ショック」
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手ごたえを感じたときにやってきた「消滅可能性都市ショック」
自分をはじめ、職員の給与カット、議員定数の削減、施設の統廃合など、やれることは何でもやりました。職員の新規採用も中断して、3000人いた職員を10年かけて、2000人まで減らしました。
給与カットでは労働組合が連日座り込みの抗議活動。区議会では怒号とともに猛烈な突き上げをくらいました。それは当然ですよね。ただし、やみくもに緊縮するだけではなく、文化・商工の領域に手厚く配置して、内部の士気を上げる工夫は怠りませんでした。
「借金が大変で、がんばっています」というアピールでは、職員も区民も先々に希望を持てなくなってしまいます。「豊島区を文化と国際交流のまちにする」という私の夢を、そんな中でもずっと語り続けました。
そうやってがんばりながら、2013年度、ついに「貯金」が「借金」を上回る局面を迎えることができたのです。
◆就任から実に15年目です。
その後、「貯金」は順調に右肩上がりを続けるようになり、経常収支率も改善して、さあ、いよいよ、と手ごたえを感じていた時に襲ってきたのが、「消滅可能性都市ショック」でした。あれは本当に悔しく、悲しかったですね。