町で有数の地主に生まれ、奔放な少年時代
田中英壽は終戦の明くる1946(昭和21)年12月6日、青森県北津軽郡金木町に生まれた。生地は現在の五所川原市金木町にあたる。父親を多橘(たきち)、母親はトキ江といい、英壽は二人の兄と姉の次に誕生した三男である。
田中家は戦前から町で四番目に数えられる地主として栄えた。小作人たちを大勢雇って20町歩の広大な田畑で米や野菜を育ててきたとされる。1町歩は10反、1万平米、100アールだから、田中家はおよそ20万平米、6万坪以上の田畑を所有してきたことになる。田中の生まれた前年に日本が敗戦を迎え、米占領軍のおこなった農地解放により田中家の田畑は5町歩までに減った。だが、父親の多橘は戦後いったん手放した農地を再び買い戻して8町歩に回復させる。
大きな庭には30羽の鶏が飼われ、1日に15個の卵を産んだ。終戦間もない都会の子供たちは食うや食わずで、餓死する者も続出したが、青森の田中家では食料がふんだんにあり、暮らし向きに困ることはない。
田中英壽はそんな豪農の三男として奔放な少年時代を送った。
金木町は文豪太宰治の生誕地であり、今もファンが訪れる。田中本人は幼い頃から太宰の生家に遊びに行き、『斜陽』や『走れメロス』などの代表作を読んだという。意外に感じるかもしれないが、のちに日大相撲部で名を馳せた田中は文学少年でもあった。
田中は52年4月、金木町立蒔田小学校に入学すると、相撲を始めた。きっかけは卵だったという。
〈毎日、真っ黒になって遊び、夕方、カラスと一緒に自宅に帰り着く頃はもうおなかが背中にくっつくぐらいにペコペコです〉
本人が自叙伝『土俵は円 人生は縁』(早稲田出版)に小学生になったばかりの思い出を次のように書いている。
〈さあ、待ちに待った楽しい夕食です。ふと横を見ると、上の兄2人の前には、触らせてもらえない真っ白な生卵が一つずつ置いてあり、私の前にはなんにもないんです。まだほんの子供ですから、「なんでだ」となりますよね。
「オフクロ、あんちゃんたちには卵がついているぞ。オレにも食わせろ」
と私は真っ赤な顔をしてオフクロに言いました。すると、オフクロは、
「うんにゃあ、あんちゃんたちは相撲やってるから、体力をつけんといかん。お前は遊んでばっかりいるんだから、食わんでいい」
と言うんです〉
東北地方の中でも青森県はとりわけ相撲の盛んな地域であるが、田中の通った蒔田小学校には相撲部がなかった。当人が細身だったこともあり、小学校では野球部に入った。しかし雪深い東北で野球はさほどメジャーなスポーツではなく、部員も少なかった。
「野球なんかのために体力をつけなくてもいい」
母親のトキ江は、野球部に入った三男をそう突き放したという。
一方、父親の多橘は相撲の経験こそないが、軍隊で銃剣道五段の腕前だった。その血を受け継いだ田中家の息子たちは体格的にも恵まれていたに違いない。田中家の長兄は定時制金木高校の相撲部に所属し、国民体育大会にも出場するほどの有名選手でもあった。次兄も兄に倣って中学生のときから相撲を始めた。そして田中自身は卵欲しさに二人の兄から相撲の稽古をつけてもらうようになる。そんな牧歌的な少年時代を送ってきた。