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連載 大学と権力──日本大学暗黒史 第6回

森功(ノンフィクション作家)

 「職員になって大学のトップを目指せ」

そんな田中がプロの相撲取りにならなかった理由はさまざまに語られてきた。「175センチの身長では通用しないと悟っていた」、あるいは、「輪島と対戦して敵わないと感じた」といった説がまことしやかに伝えられてきた。だが、当人の心情は必ずしもそうではなかったようだ。先の元ベテラン相撲記者、大見が説明してくれた。

「田中さんは本当に強かった。あの輪島でさえずっと田中さんに一目置いていたものです。日大の1年先輩ということもありますし、相撲でも田中さんに勝てなかった時期がありました。だから、田中さんの心の奥底には『俺がプロに行ったら輪島以上に活躍できる。輪島があれだけやれるんだから』という悔しさが常に見え隠れしていました。一方の輪島は大学卒業後、プロに入って日の出の勢いで駆け上がって行きました。現実に、田中さんは日大の職員になると同時に相撲部のコーチをしていましたが、苦しい時代がありました。相撲部のコーチ兼大学の教職員は体のいい小間使いみたいなもので、事務局の仕事を早めに切り上げたあと、相撲部へ行って夜の稽古をしなければならなかったからです」

田中には輪島に対するある種の嫉妬があったのかもしれない。田中がプロ入りせず、職員として日大に残った理由の一つには、橘喜朔(たちばなきさく)という保健体育局長の薦めがあったとされる。元日大理事が打ち明ける。

「いわば田中理事長にとって橘氏は恩人といえるでしょう。もともと田中さんは農獣医学部の体育教員として大学に採用された。ところが橘さんが田中さんの才能を見いだし、『仮にこのまま教員として出世しても、よくて助教授、最高でも教授止まりだぞ。だったら、職員になって大学のトップを目指せ』とアドバイスをしたわけです。保健体育局長として相撲部の面倒を見てきた橘さんにしてみたら、学生横綱だった田中さんがよほど可愛かったのでしょうね。で、橘さんが根回しして職員として採用されたのです。田中さんは周囲に『輪島より俺の方が強かった。輪島は相撲しかできないけれど、俺は大学で偉くなる道を選んだんだ』と自慢していました。事実、本人の人生にとって職員になったのは幸運の始まりだったのではないでしょうか」

田中にとっては時代の運という巡り合わせもあった。67年から火のついた大学紛争がそれだ。そこで相撲部の猛者である田中は実力を発揮した。日大全共闘のメンバーだった森雄一は自らつくった年表を眺めながらこう振り返る。

「田中の経歴でいえば、69年3月に大学を卒業して農獣医学部の体育助手となり、相撲部コーチ、監督を経て2000年に保体審(保健体育審議会)の事務局長をやってから、のし上がっていったように見えます。しかし、彼が出世できたのは、学生を弾圧した実績が認められたから。そこにはヤクザとの付き合いもかなりあったのだろうと思います」

アウシュビッツ校舎と揶揄された日大農獣医学部キャンパスの封鎖事件は本連載の5回目に触れたのでここでは繰り返さない。田中はここから豪腕を振るっていく。(敬称略)

 

森功(ノンフィクション作家)
1961年福岡県生まれ。ノンフィクション作家。岡山大学文学部卒業。新潮社勤務などを経て2003年に独立。2018年、『悪だくみ 「加計学園」の悲願を叶えた総理の欺瞞』で大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞受賞。『地面師 他人の土地を売り飛ばす闇の詐欺集団』『官邸官僚 安倍一強を支えた側近政治の罪』『鬼才 伝説の編集人 齋藤十一』『国商 最後のフィクサー葛西敬之』など著書多数。
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