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連載 大学と権力──日本大学暗黒史 第6回

森功(ノンフィクション作家)

 先輩の代役で連戦連勝

『夕刊フジ』(産経新聞社)でかつて相撲記者をしていた大見信昭は、この田中の自叙伝作成を手伝っている。1943年生まれの大見は日大のOBで、田中の3歳先輩にあたる。

「あの本は、ベースボールマガジン社の『相撲』という雑誌に連載していた田中さんの半生がもとになっています。『あれを書きなおして本を出したいので協力してほしい』と日大から頼まれた。本の発行は2002年6月で、発行部数はいきなり3万部だったと記憶しています。田中さんはまだ日大理事の1人に過ぎませんでしたけれど、すでに学内では豪腕で知られていました。本が出て2、3ヵ月後には新宿の海洋ホテルの2ホールを貸し切って出版パーティを開きました。会場は数千人の来客で超満員、日大相撲部員が受付に座り、日大出身の相撲取りもいっぱい来ました。僕は相撲界を取材して長いですけれど、あれほど大きな出版パーティは初めてでした。田中さんは名刺代わりに来賓へ本を配っていました。だから版元の早稲田出版も大喜びでした」

大見はいわゆるゴーストライターだ。単行本に書いていないエピソードも明かしてくれた。

「田中さんの郷里の金木町は太宰治の出身地として知られ、『斜陽館』という太宰記念館があります。そこに、金木町出身の有名人ゆかりの品を飾るコーナーがあり、田中さんは『この本を斜陽館に飾ろうと思ってんだよ』と話していました」

小学生の頃、兄から相撲の稽古をつけられて育った田中は1962(昭和37)年4月、青森県立木造高校に進んだ。そこから本格的に相撲に目覚め、頭角を現していく。

今でこそ、関東の埼玉栄や明大中野、山陰の鳥取城北、四国の明徳義塾といった私立の強豪が高校相撲界を席巻し、そこからプロの大相撲に入るルートが定着している。が、かつては公立高校の名門が数多く存在した。青森県立木造高校もその一つだ。

木造高校は田中の入学する前の年に全国高校相撲選手権で優勝している。田中の入学時のキャプテンは岩城徹という高校相撲界の有名人だった。岩城は法大を卒業後、母校の相撲部監督として、のちの小兵力士、舞の海を育てた生みの親となる。田中は、その岩城キャプテンから直々に相撲部入りを誘われ、相撲に打ち込んだ。

田中の入部間もない628月、全国の選抜大会が青森県十和田市で開催された。そこで新入部員の田中は不調だったレギュラーの代役として団体戦に出場する。その大会で田中は連戦連勝し、木造高校は団体戦で決勝まで勝ち進んだ。決勝の相手はのちに大関栃東を輩出した明大中野高校だった。このとき田中は明大中野で将来を嘱望されていた臼井仁志と対戦している。臼井は田中と同じ1年生だったが、60キロ台の田中に対し、140キロという巨漢だった。2年生にして高校横綱となり、各界入りしたあと、十両栃葉山を名乗る。

選抜大会の決勝で田中は予想に反して臼井に勝っている。団体戦の結果は明大中野が優勝し、木造高校は準優勝に終わるが、田中の相撲人生はここから開けたと言っていい。ちなみにいっとき相撲ブームを巻き起こした若貴兄弟が明大付属中野中学に入学するのは、田中が臼井と対戦してから20年以上もあとのことだ。

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