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連載 大学と権力──日本大学暗黒史 第6回

森功(ノンフィクション作家)

横綱・輪島との出会い

田中はやがて高校相撲界に名を轟かせるようになる。が、そこへ難敵が現れた。輪島博、のちの第54代横綱の輪島大士である。

2人の初対決は田中が高校2年生だった63年の夏、青森県の板柳町でおこなわれた1年生と2年生に限った高校の選抜大会だ。輪島は田中より1学年下の481月生まれ、当時は石川県の金沢高校1年生だった。ともに個人戦と団体戦に出場し、田中は個人戦で輪島に勝利したものの、団体戦では輪島に敗れた。そこから2人はライバルとなり、親しい付き合いを始めたようだ。田中が輪島の下宿先だった金沢高校相撲部監督の家に泊まったこともあった。田中自身、このときのエピソードを先の自叙伝『土俵は円 人生は縁』で紹介している。

〈輪島の部屋で枕を並べて一晩寝たんですが、(中略)寝る前、輪島が白い紙に一生懸命、自分の名前を書いているんです。

「何やってるんだい」

 と私が聞きますと、

「先輩、サインの練習ですよ。ボク、高校を卒業したらプロの世界に行こうと思っているんですよ。絶対、出世してみせますから。そのときのためにいまからこうやって練習しているんです」

と真剣な顔で言うんです〉

実際の輪島は高校を卒業してすぐに各界入りしたわけではなく、田中の後を追うように1966(昭和41)年4月に日大に進学する。1学年違いの2人は日大相撲部の両エースとしてともに学生横綱となり、大学相撲界をリードしていった。

言うまでもなく2人は、大学卒業後に進む道が分かれる。かたや田中は大学に残って相撲部のコーチや監督となり、ついに日大の理事長になる。こなた輪島は各界入りして横綱に昇りつめるのである。

田中と輪島、学生時代はどちらが強かったのか。そこはいまだ相撲界で意見が分かれる。田中は輪島が日大相撲部に入りした頃のことを自叙伝にこう書く。

〈輪島が入学してくると、「オイ、やろう」と真っ先に新入りの輪島を稽古相手に指名したんです。(中略)10番やって89番は私の勝ちでした。圧勝ですね〉

先輩力士が後輩を指名して仕合をする、相撲界でいう申し合わせ稽古だ。

〈大学の2年生になると、私は急激に力をつけ、あちこちの大会でいい成績をおさめ、優勝もポツポツし始めていました。

 そのことが輪島との稽古によってハッキリ裏付けられたかたちになり、

「オレもつよくなったもんだなあ」

 と大いに気を良くしたものです〉

この言葉通り田中は、日大の3年生のときに学生横綱となる。日大卒業後の69年と70年、さらに74年と3度もアマチュア横綱に輝いた。34のアマチュアタイトルを総なめにした実績を誇っている。

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