個人が生きやすい社会とは何か――健康、嗜好の選択から考える

岡本裕一朗(玉川大学名誉教授)

誰もが健康で正しい行いをする社会

 例えば喫煙に関しても、啓蒙的な活動として煙草の害がいわれるのは理解できるし、禁煙についての法制度も理解できる。しかし、煙草の販売は企業として許されているし、日本ではかつて専売公社という公的なかたちで販売されていた。喫煙は個人それぞれの問題である。そこに公的な権力が介入して全てを同質化させてしまうとしたら、やり過ぎといわざるを得ないだろう。

 評論家の岡田斗司夫氏は、私たちの社会が「ホワイト化社会」になったと分析している。これは、誰もが健康で清潔、正しい行いを求められる社会といった意味だ。

 例えば、昔の芸能人は不倫をしてもほとんど非難されなかった。むしろ、それを許されているのが芸能人だと思われていたふしもある。しかし現代では、どんな立場の人にも厳しい道徳性が求められるようになった。

 ナチスが健康帝国を標榜し、禁煙運動や食生活改善運動を強く推進したことはよく知られている。このことと現代の喫煙の自由についての介入を単純に結びつけることはできないが、私たちの社会が大きく変わりはじめていることは間違いないだろう。

 現代社会は、インターネットの普及などの影響もあり、かつてより「管理」が進んできている。ドゥルーズがいうような「真のマイナー」はネット社会では存在できない。現代のモデルはいかに「バズる」か、いかに多くの人に注目されるかである。一言でいえば「波に乗る」ことが重要なのだ。

 嫌煙運動のような「波」があればあっという間に広がっていき、国家もそこに乗っていく。そうやっていったんでき上がってしまった見解に、疑問を差し挟むことは難しい。

 例えば、最近のテレビはどのチャンネルでも大谷翔平選手が話題になる。大谷の活躍を話すアナウンサーはみんな嬉しそうである。そのことへの違和感を口にすると、「お前はどうかしている」「そんなことをいう人間は日本人じゃない」といわれかねない状況になっている。

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