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本郷和人 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』源頼朝が鎌倉で築き始めた「武士の秩序」。その根幹をゆるがした弟・義経の大きな失敗とは

東京大学史料編纂所・本郷和人が分析<後編>
本郷和人

主従制は武士にとって非常に重いものだった

「将軍」という肩書が宣下されたことは、本質ではない。要するに武家社会のトップであれば、名前はなんでもいいのです。だから秀吉の場合「関白様」であり、信長の場合は「右府(うふ)様」、「右大臣様」ということになっていた。

実態として見ると、すべての武士のトップになったのは官職をもらった1603年ではなくて、既に1600年の時点で実質的に幕府が発足していたと考えるべきだし、近年、よく言われている公儀二重体制―1615年に「大坂の陣」で豊臣家が滅びるまでは江戸と大坂に公儀がふたつあったという説もありますが、現実を見れば大坂の豊臣秀頼は、全国の大名の主人ではもはやなかった。

たしかに、豊臣秀吉の息子ということで敬意は払われていたし、必ず挨拶には行く。しかしそれは家来ではない。なぜなら秀頼からは、土地をもらっていないからです。

土地をもらっていないということは、「大坂の陣」のときに豊臣方について戦う義務もないということです。実際に「大坂の陣」では、江戸幕府に対して従わなかった大名はほぼいなかったわけですから。

そうした歴史を考えると、やはり主従制というものは武士にとって非常に重いものだった。逆に言うと、日本社会はずっと平等ではなかった。主人がいて従者がいる、そうした世の中だったということが言えます。主従制がなくなった明治時代になって、初めて日本人は平等というものを獲得したのでしょう。

この主従制の重みを、義経は理解していなかった。それが結局、彼の身を滅ぼしてしまう。

主従の関係は大切だと、当時既にみな思っていたのです。

義経は後白河上皇から、「頼朝を討て」という命令書をもらうのですが、しかし「俺はこういう命令をもらっている。だから、俺と一緒に頼朝殿を討とう」と言っても、家来たちは誰も味方をしなかった。やはり家来たちにしても「義経殿が悪いよな」と考えていたのでしょう。

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