「主人はあくまで一人」というのが頼朝の立場
頼朝が、これを嫌がった理由もそこにあります。頼朝にしてみればせっかく自分の家来として組織した武士が、朝廷から官職をもらうことで、朝廷にも忠誠を尽くすことになる。つまり、主人をふたり持つことになります。
そうなると、武士の秩序をつくるという頼朝の構想が崩れてしまう。それは絶対ダメ、主人はあくまで一人であるべきだというのが頼朝の立場です。そこで頼朝が考えた方針が、「官職が欲しければ、俺に言ってこい。俺がまとめて朝廷と交渉して官職をもらってきてやる」でした。
武士が官職をもらうときには、必ず頼朝を通すことになるという状況を頼朝は作ったわけです。ところが最初に自分の弟が背いて、頼朝に断りもなく、大夫判官の官職をもらってしまった。
どうも義経本人は、鎌倉幕府の大人の事情というものを、まったく理解してなかったらしい。むしろ後白河上皇から立派な官職をもらったら源氏一門のほまれになる。兄も喜んでくれるだろうと考えていたらしいのですが、その兄は激怒するわけです。
面白いことにこのとき、義経だけではなく、ほかの関東の御家人も、たくさん後白河上皇から官職をもらっていた。
これは『吾妻鏡(あずまかがみ)』に書かれているのですが、頼朝は彼ら一人ひとりを、「おまえのように変な顔のやつは、その官職に似合わない」とか「おまえはイタチみたいな顔だ」とか、罵倒している。
そして彼らに「墨俣(すのまた)から東に帰ってくるな」と言い渡した。これは、「おまえたちは後白河上皇から官職をもらったのだから、後白河上皇にお仕えしろ。そして墨俣から東は俺のテリトリーだから、もしこちらに帰ってきたらおまえらの首を切るぞ」ということ。
ずいぶんと狭量な姿勢に見えますが、そうではないのです。勝手に朝廷から官位をもらうようなことがあると、武士社会の秩序である主従が崩れてしまう。それは頼朝にとって、彼の構想の根本からゆるがす、決して許すことのできない行為だったのです。