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津波で両親と2人の子どもを亡くした。「この人には、きっと言いたいことがある」

笠井千晶

─本書は、東日本大震災から二〇一八年までの被災者の七年間を記録したルポルタージュで、福島県南相馬市在住の上野敬幸さんとその家族が主人公に据えられています。上野さんは津波で両親と二人の子どもを亡くすなどの悲しい出来事に見舞われていますが、取材にあたって信頼関係を構築するために、心掛けていることはありますか。

 上野さん一家とは震災の年、原発事故に揺れる南相馬を取材する過程で知り合って以来、随分たくさんお話を聞かせていただきました。そのように親しい間柄になっても、忘れてはいけない「一線」があると思っています。私が当事者ではない以上、ご家族のことを「本当にはわかりえない」と自覚し、知ったつもりにならないことです。被災者の感情というのは、常に揺れ続けています。私はその都度、「いまの気持ち」を尋ねるよう心がけています。

 

─取材を七年続ける過程で、笠井さん自身もテレビ局の報道職を辞されたり、映画制作のためにクラウドファンディングに挑戦されたりと、紆余曲折があったかと思います。ご自身を突き動かす動機は何でしょうか。

 震災で家族を亡くした遺族の喪失感、そして心が回復する過程とは現実にどういうものなのか、それを自分の目で確かめ、伝えたいと思ったのです。東日本大震災から九年が経ち、今では断片的な報道が多いと思います。一方私は、毎月同じペースで現地を訪ね続けてきたことで初めて、想像を超えた現実を知ることが出来ました。時間が経てばその分だけ、被災者の気持ちも前向きになる、などという単純なものでは決してない、ということです。
 上野さんとは震災の年の十月、南相馬の海岸で出会いました。私が手にカメラを下げたまま佇んでいた時です。
「なんだぁ!? コノヤロウ」
 と、突然、ドスの利いた怒鳴り声を浴びせられたのです。声の主は軽トラックに乗った上野さんでした。私のカメラを訝しみ、メディアに敵意をむき出しにしていたのです。すぐに、立ち去った上野さんを追いかけ、思い至らなさを謝りました。その時の上野さんの目が、あまりにも深い悲しみに満ちていて「この人には、きっと言いたいことがたくさんある」と強烈な印象が残りました。数ヵ月後、偶然再会した時に初めて聴いた上野さんのお話は、まさに、原発事故の陰で見捨てられた津波被災者たちの叫びそのものでした。
 そして、出会って半年後のある日、
「今度、いつこっちに来るの?」
 と上野さんから電話がありました。思ってもみないことで、うれしかったですね。

 

─文筆と映像制作の違いは何でしょうか。

 テレビや映像の世界に入って二〇年になりますが、今回初めて本を書きました。執筆にあたっては、東北の被災地で撮影した四五〇時間以上の映像を見返し、場面を描いていきました。映像の場合、切り取った小さなフレームの範囲内でしか表現できないところを、文字にする時はフレームの外側、周辺の全てを活字として再現する余地があるのです。自分が撮影した映像だからこそ、見れば即座に、現場で感じた日差しや風や匂い、身体の芯まで凍えるような東北の厳しい寒さなどが蘇ってきます。この本を読んだある新聞記者に私の文体は、場面を描く時に三つのセンテンスで完結させて、色々なことを言い過ぎないところが良いと言われました。限られたカットで表現するのが映像の醍醐味ですが、そうした「カット割り」を、文章表現の中でも私は意識せず行っていたようです。

─今後の活動予定を教えて下さい。

 震災六ヵ月後に生まれた上野さん夫婦の娘・倖吏生ちゃんがどう成長していくのか、一〇年、二〇年後に伝えるべきことがあれば新しい形で伝えたいですね。夫婦は歳を重ねて老い、一方の倖吏生ちゃんは大人になっていきます。震災によって、自分が生まれる前に家族を亡くしたという事実は、倖吏生ちゃんの心にも少なからず影響すると思いますが、元気に明るく幸せな人生を歩んでほしいと願っています。

〔『中央公論』2020年9月号より〕

笠井千晶
〔かさいちあき〕ドキュメンタリー監督。1974年山梨県生まれ。お茶の水女子大学卒業。静岡放送、中京テレビに勤務の後、2015年フリーに。テレビの報道現場で働く傍ら、東日本大震災後の福島へ一人で通い撮影した長編ドキュメンタリー映画『Life 生きてゆく』(17年)で、第5回山本美香記念国際ジャーナリスト賞受賞。同作での取材をもとに執筆した本書で、第26回小学館ノンフィクション大賞受賞。