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令和2年谷崎潤一郎賞発表--『日本蒙昧前史』磯﨑憲一郎

磯﨑憲一郎
 中央公論社創業八十年を記念して創設された谷崎潤一郎賞は、昭和四十年以来、五十五回にわたり毎年優れた文学作品を選び、それを顕彰してきました。
 本年は第五十六回を迎え、令和元年七月一日より令和二年六月三十日までに発表された小説および戯曲を対象として、選考委員による厳正な審査を重ねてまいりました。その結果、上記のように磯﨑憲一郎氏の『日本蒙昧前史』を本年の受賞作と決定いたしました。
 ご協力いただきました各位に御礼を申し上げますと共に、今後いっそうのご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。

令和二年十月十日 中央公論新社

【受賞作】
日本蒙昧前史  
磯﨑憲一郎(文藝春秋)

〔正賞 〕 賞状
〔副賞〕百万円、ミキモトオリジナルジュエリー

[選考委員]
池澤夏樹/川上弘美/桐野夏生/筒井康隆/堀江敏幸


※選評は『中央公論』11月号に掲載されています。


[受賞エッセイ・文学的近況]
『日本蒙昧前史』の時代の子供

 一ヵ月ほど前のことだが、私の所属する大学の研究会で、私は生まれてから小学校卒業までを千葉県の我孫子市で過ごした、という話をした、するとその話に、哲学者の國分功一郎さんが異常に強い反応を示した、國分さんは我孫子の隣の、市の出身だった、職場の同僚となって二年以上が経つというのに、私たちは互いにそのことを知らずにいた。

 昭和の四十年代から五十年代の前半にかけて、それは『日本蒙昧前史』の舞台となった時代ともほぼ重なるのだが、私たちは常磐線沿線の新興住宅街で育った。当時の我孫子や柏は、都心の企業で働くサラリーマンが住宅金融公庫でローンを組んで、家族で暮らすための一戸建てを買える場所として選択されるような、そんな街だった、私の父親は地元の工作機械メーカーに勤めていたが、小学校の同じクラスには東京の新聞社や官庁、保険会社の社員の子供も何人かいた。強引に宅地開発が推し進められても、誰も文句をいえない時代だった、田畑が潰され沼地が埋め立てられると、一瞬だけ、子供の遊び場としては理想的な、広々とした更地が出現するのだが、ほどなくそこには表札なしには区別するのが難しい、青い瓦屋根に白いモルタル塗りの壁の、似通った外観の建売住宅が並んでしまうのだ。

 とはいっても周囲にはまだまだ、放課後の小学生たちを退屈させないだけの自然が残っていた、私の家の北側にも、さすがに熊までは棲んでいないだろうが、鹿やイノシシにならばばったり遭遇してもおかしくはない、奥深い森が広がっていた、夏ともなればクヌギの樹液に群がるカブトムシとクワガタを、素手で容易に捕らえることができた、友達と連れ立って、自転車を駆って訪れた貯水池では、釣り糸の先に駄菓子の酢イカを括って垂らした途端、何尾もの真っ赤なザリガニが喰らい付いてきたものだった。戦前の子供ともさして変わらぬ、虫採りや釣りのような遊びに興じていたかと思うと、日が暮れて家に帰るやいなやカラーテレビの正面に陣取って、「ウルトラセブン」や「仮面ライダー」に見入っていた、かつて島田雅彦さんが『忘れられた帝国』で描いたのよりも数年遅れではあるが、私たちもまた、田舎と都会の境界を越えて自由に往き来する子供、「郊外」の住人に他ならなかった、何しろ一駅電車に乗りさえすれば、そこにはわざわざ銀座や上野にまで足を延ばさずとも欲しい物は何でも揃っている、城の天守閣めいて大仰なデパートが聳え立っていたのだ。

「典型的な郊外、都心のベッドタウンであった柏という街の象徴が、柏そごうでした」國分さんはそんな風に表現した、柏そごうは昭和四十八年十月に柏駅東口に開業した、それまで柏を訪れた者が改札口を出て目にするのは、小売店と飲食店と民家が中途半端な隙間を空けながら建ち並ぶ、乱暴に「殺風景」という一言で片付けても許されるであろう関東の田舎町のそれだった、そこに突如として、地上十四階、地下一階、隣接するテナント店舗棟まで併せた総売り場面積は四万平方メートルという巨大百貨店が現れた、純白の壁面には半円形の意匠を凝らした窓が並び、その真ん中を貫いて二列の、側面をガラスで覆った展望エレベーターが設置されていた、しかもそのエレベーターの行き着く最上階には、当時の地元の人々からするとほとんど信じ難いことだったのだが、円盤型の回転展望レストランまであったのだ! フランス料理の前菜からデザートまでが振る舞われるちょうど一時間で、レストランは三百六十度を一周した、食事客は天気さえ良ければ東に筑波山を、西には遠く富士山までをも見渡すことができた。

 週末ともなれば、柏市内のみならず近隣の街に住む家族が挙ってそごうへと向かい、散財を繰り返した。雪の散らつく朝、柏駅舎とデパートの二階入口を直接結ぶ、日本初のペデストリアンデッキを、私たち家族も歩いていた、開店翌年の二月か、三月の初めだったと思う、とつぜん八歳の私は両親と妹を置き去りにして、全力で走り始めた、それは買い物への高揚感だったのか? それとも巨大な建造物に立ち向かっていくような気持ちだったのか? 唸り声さえ上げていたかもしれない、駆け足が最高速度に達したところで、視界が薄灰色に染まり、宙に浮かぶ二、三の雪片が見えた、ズック靴を滑らせた私の身体は仰向けに反転し、そのまま後頭部から落ちて、タイル張りのデッキに思い切り叩き付けられた、家族だけではなく近くを歩いていた通行人も心配して、寝そべったままの私の周りに駆け寄ってきた、医務室のような場所に連れて行かれたような気もするが、記憶が定かではないのは、軽い脳震盪ぐらいは起こしていたからなのかもしれない。

 子供にそんな事故があったというのに、けっきょくその日も夕方まで、私たち家族は柏そごうに留まった、吹き抜けの二階の手摺りから半身を乗り出して見下ろすと、赤い絨毯の敷かれた特設ステージ上に現れたのは、金色に輝くジャケットを羽織った、坂本九だった、いや、金色は単に照明が反射してそう見えただけなのかもしれないが、もちろん本物の坂本九だ、「上を向いて歩こう」の大ヒットからは既に十年以上が経過していたが、私たち子供にとっては毎夕NHKで放送されていた人形劇「新八犬伝」のナレーションの、あの坂本九だった。それにしてもこんな身近な距離で、肉眼で芸能人を見ているという現実は、子供心にもどうにも違和感があった、その違和感の内のどこまでが『日本蒙昧前史』で大阪万博を訪れた少年が感じた、あの「嘘臭さ」と共通しているのかは分からない、しかしこうして文章を書いている間にもありありと蘇ってくるのは、隣街同士でありながら、柏は我孫子とは明らかに違っていた、風景も、住んでいる人々も、どこか豊かで穏やかで、洗練されているように見えた、考えてみればおかしな話ではあるのだが、地理的には東京都内であり都心にも近い亀有や北千住よりも、柏の方がよほど「東京」を感じさせた、その違いに反抗心めいたものを覚えていながら、それでも消費の欲望によって否応無く引き寄せられてしまうという、我孫子市民が抱えていた矛盾した感情なのだ。

 二〇〇〇年代に入りつくばエクスプレスが開通すると、繁栄の中心は柏市の北部へと移った、柏そごうも九〇年代の頭をピークに売り上げが減少し始め、二〇一六年九月末で、四十三年間続いた営業を終了した。柏そごうの閉店は、不可解とも思えるほど多くの新聞やテレビのニュースで取り上げられた、最終日には、恐らく私と同世代であろう人々が何百人も店舗の前に集まって名残を惜しんでいる様子が映し出されたが、彼らが浸っている郷愁は、何かが決定的にり替えられてしまった結果のような気もした、柏そごうの閉店に「百貨店型ビジネスの限界」「郊外文化の終焉」を見る、という声も聞かれたが、そうした輪郭の明快な、誰しもに納得感を与える解説からは抜け落ちるもの、時代性の括りから零れ出す個々の人生の時間をこそ、小説という表現が、徹底して具体性を積み上げることによって受け止めなければならないと、私は最近、改めて感じている。

 

〔『中央公論』2020年11月号より〕

 

日本蒙昧前史  

磯﨑憲一郎

文藝春秋/本体 2100円

磯﨑憲一郎
〔いそざきけんいちろう〕
1965年千葉県生まれ。2007年『肝心の子供』で文藝賞を受賞しデビュー。09年『終の住処』で芥川龍之介賞、11年『赤の他人の瓜二つ』でBunkamuraドゥ マゴ文学賞、13年『往古来今』で泉鏡花文学賞を受賞。他に『世紀の発見』『電車道』『鳥獣戯画』などの作品がある。