『チェンソーマン』藤本タツキ著 【このマンガもすごい!】

杉田俊介(批評家)

評者:杉田俊介

 近年の『週刊少年ジャンプ』に連載されている(た)『鬼滅の刃』『チェンソーマン』『呪術廻戦』等の作品を毎週読んでいて、陰鬱な気持ちをどうにもできなかった。キャラクターたちの夥しい死が積み重なり、鬱的な展開のインフレを競い合うかのようだったからだ。世相の暗さを思った。

 特に藤本タツキの『チェンソーマン』では、主要人物たちが異様な速度で死んでいく。人気投票が行われたものの、結果が出る頃にはその多くが死んでいた、という事実がそれを象徴する。タバコを吸うほどの気軽さで人々が死んでいくのだ。

 主人公の少年デンジは、生まれた瞬間から全てを奪われていた。死んだ親の借金を背負わされ、義務教育も受けられず、内臓も売った。一日食パン一枚、ジャムさえない。デンジはチェンソーの悪魔と契約し、デビルハンターのバイトをはじめるが、ヤクザへの借金を完済できる見込みもなく、都合よく利用され、搾取され、使い捨てにされていく。

 デンジの「夢」。それは「普通」の生活である。「普通」と言っても極めて低水準であり、人間的=文化的ではなく「動物的」なレベルの低度の欲望である。女性に対する欲求も単純な性欲に近い。それは福祉国家の失敗、あるいは相互扶助の不備による社会的な「貧困」......というよりも、もはや〈ド底辺〉─あえてこの言葉を使いたい─というべきものだ。経済的または文化的に貧しいだけではなく、欲望が動物的に貧しいのだ(デンジは作中でしばしば「犬」扱いされる)。

 デンジの生存感覚には、寒々しいリアリティがある。子どもたちや若者たちにとって、今や生とはそのようなものなのか。あらゆる意味でこの世界から軽く扱われており、それゆえに気軽なものであるしかないのだろうか。

 重要なのは『チェンソーマン』は〈ド底辺〉が〈ド底辺〉のまま、〈バカ〉が〈バカ〉のまま肯定されうる世界であることだ。〈ド底辺〉の生の哲学、とでもいうべきものがここにはある。

『チェンソーマン』の世界では、強さの根拠は血統や能力(人的資本)ではない。勇気や正義でもない。『鬼滅の刃』的な努力主義でも、『呪術廻戦』的な天賦の才能(天才性)でもない。デンジの師になる岸辺隊長は、悪魔が恐れるのは「頭のネジがぶっ飛んでるヤツだ」と言う(第16話、第19話)。頭のネジがぶっ飛んだ狂気のような〈バカ〉。そのような生が肯定されるのだ。

 この原稿が掲載される時点で雑誌連載が続いているかどうかわからない。ただ、デンジのような〈ド底辺〉の少年をリアルな主人公として描いたことの意味は大きいだろう。

 人々の命がタバコほどにも軽い世界の中で、デンジのような若者たちはどんな生存戦略を取りうるのか。〈ド底辺〉が〈ド底辺〉のまま、〈バカ〉が〈バカ〉のまま、偉大で崇高な存在になっていくとは、どういうことか。彼らにはこれから、どんな「夢」を見ることがゆるされているのか。

 

〔『中央公論』2021年1月号より〕

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