〈没後五〇年〉不良老人・永井荷風という晩年
その日、半藤記者は自宅へ
嵐山 半藤さんは今年でおいくつになられるんですか。
半藤 七十九です。
嵐山 もしかして、荷風さんが亡くなった年と同じですか。
半藤 同じですよ。
坂崎 昭和三十四年四月三十日が命日だから、今年でちょうど没後五〇年ですね。
嵐山 そのとき、半藤さんは『週刊文春』の記者でしょ?
半藤 そうです。四月に『週刊文春』が創刊され、異動したばかり。荷風さんが亡くなった日のことはよくおぼえていますよ。
午前十時ぐらいに出社したんです。そうしたら、「荷風さんが亡くなった!」と一報が入ったんです。
それで、上林(吾郎)編集長が「誰か荷風さんの家を知ってるやついないか」と言うので、「知っている」と答えたら、「すぐに行ってくれ」と言われて、千葉県市川の自宅に飛んで行ったわけです。
坂崎 なぜ自宅を知っていたんですか。
半藤 それが、最晩年の荷風さんを偶然浅草で見かけたことがあったんです。そのとき、荷風さんは足どりが覚束なくて、タクシーを拾って帰ろうとしていた。その姿を見ていて、これはちょっと大変だなと思って、私もタクシーでついていったんです。それで押上の駅まで行って、電車に乗り換えて、荷風さんが門に入るのを見届けて帰ったことがあったんです。
嵐山 ストーカーですか。(笑)
半藤 ストーカーだね(笑)。そんなことがあって、荷風さんの家を知っていたんですよ。
嵐山 それにしても、よく中に入れましたね。
半藤 駆けつけたのが早くて、警官は一人いただけで、あとは新聞記者が三人で、五番目ぐらいだったと思います。
門が開いていましたから、玄関まで入って行って、そのまま靴を脱いであがっちゃった。
入口のところにはロープが一本張ってあったけど、書斎兼寝室になっている奥の部屋をのぞくと、荷風さんは机を前にまだ倒れたままでした。そこで荷風さんのお顔を拝みました。
部屋の入口のすぐ右手を見ると、荷風さん愛用のレインコートがかかっていたんですよ。それで、これを記念にもらっておけと(笑)、コートに手をかけたんです。でも、さすがに遺品を黙って持っていくのは泥棒だな、と思い止まって、コートを元に戻したんだけど......。
嵐山 それぐらい、荷風さんが好きだったんですね。
半藤 好きだったんです。だから本当はね、持って帰ってうちで......。(笑)
嵐山 そんなの、持って帰っていたら......。(笑)
(続きは本誌をご覧下さい。)
〔『中央公論』2009年6月号より〕