『アンデッドアンラック』戸塚慶文著【このマンガもすごい!】
評者:杉田俊介
前回(一月号)は『チェンソーマン』を論じたが、その直後に『チェンソーマン』の連載が終了した(アニメ化と続編のウェブ連載が予告されてはいる)。『鬼滅の刃』の完結の潔さと言い、今回の『アンデッドアンラック』(以下、『アンデラ』)の超高速展開と言い、近年の『ジャンプ』の王道的作品たちの生き急ぐかのような燃焼ぶりは何だろう。
人生はクソゲーだ。残機一機でリプレイ不可。ガチャ失敗してもリセット禁止。そうした若者の感覚を聞いたことがある(たとえば『鬼滅の刃』の上弦の鬼たちとの戦闘のように)。そうしたクソゲー感覚に満ちあふれているのがこの『アンデラ』である。『アンデラ』の世界では、正体不明の「神」によって、「否定」の能力が特定の人々(否定者)へと強制的に与えられる。能力はその人を高確率で不幸にする。特に多いのは、説明も何もなく突然能力を賦与され、自分の力で家族を皆殺しにしてしまう、というパターンである。
物語は出雲風子の自死未遂からはじまる。風子は「不運」の否定能力を持ち、皮膚接触した者に不運を与える。風子とバディになるアンディは「不死」の能力の持ち主であり、「最高の死」を望んでいる。風子の人生の目的は「普通の女の子」の青春や恋である。
『ワンピース』の主人公の目的は海賊王であり、『NARUTO』は火影(忍者の最高位)、ポストヒーロー的な世界観の『僕のヒーローアカデミア』ですら「最高のヒーロー」という到達目標があった。だが『チェンソーマン』の主人公の夢は普通の生活であり、『呪術廻戦』では「正しく死ぬ」こと、『アンデラ』では普通の幸せや死である。彼らは英雄化や階級上昇という目的すら持ちえず、普通に生きて死ぬことがもはや手の届きがたい「夢」なのだ。デフレ経済の社会反映、という以上の何かがここにはある。
近年の少年漫画において、勧善懲悪的な基準はもはや自明ではない(ポストヒーローもの)。しかし『ヒロアカ』『鬼滅』『呪術廻戦』などと『チェンソーマン』や『アンデラ』の間には微妙な違いがある。後者ではこの世界を形作る自然法則(理=ルール)そのものが偶然的に変化してしまうのだ。「木々も星々も、星々も諸法則も、自然法則も論理法則も」、全ては偶然的に崩壊しうる(カンタン・メイヤスー『有限性の後で』)。
不運なのに死ねない。それは最悪の不幸だろう。ならせめて最高の死を......『アンデラ』の感覚には残酷なニヒリズムがある。この世界がクソ=地獄なのはデフォルトだ。現実はたんに圧倒的に不公正なだけだ。ならば自分の運命を受け容れるか、絶望して死ぬか、開き直って悪に走るか─しかしアンディはその三つ以外にも選択肢があると気づく。この世界(神)と戦うこと、である。では、善悪や真偽すらも無意味にどんどん変化してしまう徹底的にポストトゥルースな世界の中で神と戦うとは、「最高に幸せになって死ぬ」(風子)とはどういうことか。『アンデラ』の今後の展開は少しも予断を許さない。
〔『中央公論』2021年3月号より〕
批評家