岸 由二×今尾恵介 移動用の地図と定住用の流域地図――二刀流で災害から命を守れ

岸 由二(慶應義塾大学名誉教授)×今尾恵介(地図研究家)

「温暖化豪雨時代」の治水

今尾 岸先生が流域思考を勧める背景には、われわれがすでに「温暖化豪雨時代」の入り口にいるのでは、という認識があるんですよね。


 ええ。まず温暖化が問題として議論の表面に現れたのは、リオデジャネイロで開催された1992年の地球サミットです。直前にアメリカがすさまじい熱波に襲われ、温室効果ガスの濃度の安定化を目指す気候変動枠組条約が採択された。実際、炭酸ガスの放出量はどんどん増えていて、それに対応するように地球の平均気温も上がっています。そのデータをもとに、豪雨や渇水が激しくなるだろうというシミュレーションが続いてきたわけです。

 一方、豪雨の状況を見ると、おそらく台風の規模や頻度はあまり変わっていない。私が長年暮らす鶴見川流域でいえば、ここ100年で最大の豪雨は戦前の1938年、その次が戦後の58年。90年代になってまた少し増えていますが、この二つを超える豪雨は起きていません。これは日本列島全体、さらには世界的な傾向とも重なると思います。

 ただし、ここ10年ほど、鬼怒川の大水害(2015年)や熱海市の土石流災害(21年)みたいな局所的な豪雨は増えているように見えます。ですから、そろそろ温暖化豪雨時代が始まっていると捉えて、本気で対応を考えたほうがいいというのが私の判断です。その対策として、流域思考にもとづいた防災を進めるべきだと思っているんです。


今尾 岸先生は、鶴見川での治水に40年近く取り組んでこられたわけですね。そして、それは成功している。だから、その方法を他の河川にも広げていくべきだと。


 そうです。鶴見川は東京都町田市から神奈川県横浜市に至る一級水系(国土保全上または国民経済上、特に重要な水系として政令で指定されたもの)で、1980年から流域治水型の治水に取り組んできました。その結果、82年以後は大きな水害に襲われていない。大阪府の寝屋川(ねやがわ)なども似たような取り組みを行っていますが、流域治水については鶴見川が全国で最も進んだ例だと思います。

 鶴見川は明治以降、何度も大水害を起こして、戦後も6回の大氾濫を経験しました。かつて氾濫の主因は豪雨でしたが、戦後は大豪雨がなくても氾濫するようになった。理由は急激な市街化です。周辺では60年代からベッドタウン開発が進み、235平方キロメートルある流域の9割を占めていた雑木林や田畑が市街地になった。そのために保水力や遊水力がなくなり、少ない雨でも氾濫するようになったんです。


今尾 市街化の問題は大きいですよね。道も全部舗装してしまうから、保水のしようがない。


 川は流域の開発がなくても、とてつもない豪雨が来れば氾濫するし、そういう豪雨が来なくても、開発が進めば氾濫するんですね。鶴見川ではこの問題に対処するため、河川や下水道の整備に加え、緑地を守り、開発とセットで多数の池(雨水調整池)をつくって保水力を上げてきました。川からの水を遊水地に溜める「あふれさせる治水」にも力を入れてきたんです。

 今は国内の多くの川が、開発によって氾濫しやすい状態になっています。すさまじい豪雨が来れば、日本に安全な川は一つもないと言える。ですから、ぜひ鶴見川の例を真似ていただきたいんです。

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