岸 由二×今尾恵介 移動用の地図と定住用の流域地図――二刀流で災害から命を守れ

岸 由二(慶應義塾大学名誉教授)×今尾恵介(地図研究家)

地図から見える「土地の履歴」

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今尾 鶴見川では、下流部に84ヘクタールにも及ぶ巨大な多目的遊水地をつくっていますよね。その一部は日産スタジアム(横浜国際総合競技場)などがある新横浜公園になっている。先生のご本で印象的だったのは、2019年にこの競技場で開かれたラグビーワールドカップのお話です。台風19号による豪雨で川からあふれた水を、競技場下の遊水地に溜めることで試合を無事に開催できた。でも、そのとき水害を食い止めたのは遊水地の力だけじゃない、上流の森や雨水調整池などの総合力だと。


 鶴見川の上中流には、雨水調整池だけでも2000~3000ほどありますからね。それらを合わせた大きな保水力の賜物と言えます。


今尾 もはや、水害を川や一部の施設だけで解決できる時代ではない。それがよくわかりました。

  日産スタジアムは広く知られていますけれど、そこに巨大な治水施設があることは意外に知られていないと思うんです。国土地理院が発行する「地理院地図」を見れば、新横浜公園一帯は堤防を表す地図記号で囲まれています。それを見ると、いざというとき、そこに水が溜まることがわかるんです。

 そもそも日本の沖積平野(河川による堆積作用によって形成される地形)は、常に河川の氾濫の危険にさらされているとも言えますよね。標高10メートル以下の地域に暮らしている人も、かなり多いですし。


 標高10メートル以下は、基本的に危険です。大豪雨が来ればそのくらいまで氾濫に見舞われることがあるし、津波が到達する可能性もある。皆さん、普段そんなことは考えずに暮らしておられるでしょうけれど。


今尾 家を建てるなら神社やお寺の近くが安全だと昔から言われてきましたけど、これは寺社が低地より1~2メートル高い自然堤防の上に建っていることが多いからですよね。そういう「土地の履歴」を知ることは、現代でも大切だと思います。

「地理院地図」の中の「地形分類図」では、自然堤防が黄色に着色されています。それを見ると、そのあたりが微高地だとわかる。「地形分類図」は、台地や沖積低地、自然堤防の背後に広がる水分の多い後背湿地などが識別できるので大変便利です。


 後背湿地がわかれば、市街地で危険なエリアが推定できますからね。


今尾 「地理院地図」はネットで誰でも見られるので、ぜひ活用していただきたいですね。実は最近、過去の津波や洪水を伝える自然災害伝承碑を示す地図記号もできました。地図中でその記号をクリックすると、災害の概要が示されて、犠牲者数などもわかる。その場所にどんな危険要素があるかを知ることができます。

 自然堤防は「地形分類図」などを見ないとわかりませんが、昔の地図には人間がつくった霞堤(かすみてい)のような古い形の堤防もたくさん描かれています。霞堤は富山県の黒部川や石川県の手取川(てどりがわ)などに、今も残っていますけれど。


 霞堤を表す地図記号もあるんですか。


今尾 記号はありませんが、堤防の形を見ると、それとわかるわけです。霞堤はいわゆる信玄堤(しんげんづつみ)と同じで、堤防の一部を川の上流方向に向かって切り、その切れ目からあふれた水を排出する仕組みです。上流に向けて少しずつ氾濫させることで、壊滅的な氾濫を防ぐ。あふれ出た水は、だいたい田んぼに流れ込む。


 まさに「あふれさせる治水」の昔版ですよ。川の水は田んぼに良い泥を運んでくれるので、水田耕作にとってはむしろプラスになる。昔の人の知恵だと思います。


今尾 しょっちゅう浸水するエリアに人が生活しているのも、家を流されるのが何十年かに一度くらいなら、土が良くて水田に適した場所で収穫を上げたほうがいいと考えた結果ですよね。


 そういう暮らし方も、かつては地域の権力者が設計していたんですね。近代以前は生産の基本が水田耕作だったし、物を運ぶにも川を使っていたから、水を管理する者がその地域をコントロールすることができた。権力単位も、流域ごとに成り立っていました。古い絵地図も、よく見ればみな流域地図ですよね。尾根に木がもしゃもしゃと描かれていたり。


今尾 支流が集まって本流になったり、川が枝分かれしていく様子も描かれていますよね。


 ところが、明治以降は暮らしが変わって、流域と関係のない地図が使われるようになった。ここに大きな問題があります。


(続きは『中央公論』2023年4月号で)

構成:倉田 波 
撮影:米田育広

中央公論 2023年4月号
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岸 由二(慶應義塾大学名誉教授)×今尾恵介(地図研究家)
◆岸 由二〔きしゆうじ〕
1947年東京都生まれ。東京都立大学大学院理学研究科博士課程単位取得退学。博士(理学)。専門は進化生態学。著書に『「流域地図」の作り方』『生きのびるための流域思考』、共著に『「奇跡の自然」の守りかた』、共訳書に『利己的な遺伝子』など。

◆今尾恵介〔いまおけいすけ〕
1959年横浜市生まれ。明治大学文学部ドイツ文学専攻中退。日本地図センター客員研究員、日本地図学会「地図と地名」専門部会主査などを務める。『地図マニア 空想の旅』(斎藤茂太賞)、『東京凸凹地形散歩』『駅名学入門』など著書多数。
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