武田徹 立花隆と両親に影響を与えた、長崎での生活とは。思想の原点を探る
洗礼を受けた母
こうして一家は日本の実効支配下にある北京での生活を始めることになるが、短かった長崎時代は立花家の面々に長く影響を及ぼした。経雄は長崎に赴任する前にふたつのことをしている。活水学院がミッション系であることは既に触れたが、彼自身もまだ活水への就職の話が出る前の早稲田の学生時代に軽井沢で洗礼を受けている。
そして、もうひとつ、活水は長崎一の「お嬢さん学校」であり、そこで教えるにあたっては身を固めておくように学校から「指導されて(立花『「戦争」を語る』など)」結婚している。妻となった龍子は水戸女学校の教師をしていた経雄の姉の教え子で、姉に会いに家に出入りしているうちに経雄とも親しくなったという。
長崎での生活を始め、龍子も毎日曜日に活水のチャペルに出席するようになり、洗礼を受けている。「ミッションスクールの教師の妻として洗礼をと勧められ、何もわからぬまま受洗した。当時何の感激もなかった」と龍子は「聖書と私」と題し、親しい関係者に配布した文章に後に書いている。
しかし、当初は形式的なものでしかなかった信仰がやがて実態を伴うようになる。「聖書の勉強会に出席しても、私の心の畑に育ってくるものはなく、唯形式的、習慣的に毎週出かけていた」龍子だったが、活水学院で哲学を教えていた湊川孟弼と出会い、内村鑑三の著作を知った。
活水は、18世紀に英国人ジョン・ウェスレーによって提唱された、日課を区切った規則正しい生活方法(メソッド)を送ることを特徴とするプロテスタントの一派「メソジスト」派の学校だったが、湊川は内村の影響を受けて無教会派のクリスチャンとなっており、立花の両親もそれに従った。
内村鑑三は自身の処女作『基督信徒のなぐさめ』において、初めて「無教会」という言葉を用いている。そしてキリスト教の歴史を通して教会に付随してきたいろいろな権威・権力を克服する考えから「教会」よりも「キリストの十字架」を重んじることを求め、キリスト教とは「十字架教」であると述べた。
このように無教会主義は、教会主義・教会精神からの脱却を目指すのであって、キリスト教の福音信仰そのものを否定する主義ではない。理論的にはマルティン・ルターの宗教改革の二大原理である「聖書のみ」「万人祭司」を徹底追求しようとしたもので、無教会主義のクリスチャンは自らの信仰をプロテスタントの一形態と位置づけている。しかし、「信仰は個人の行為であると同時に教会の行為」であり、「(キリストの体である)教会の外に救いはない」というキリスト教本流の主張に反する点で、無教会主義はカトリックでもプロテスタントでもない信仰だと海外では考えられ、日本独自のものとなっている。
こうした無教会主義の信仰観が立花の両親、特に母・龍子を惹きつけた。
「それまではキリスト教=教会、牧師、洗礼と、道はそれだけだと思っていたのが、キリスト教=キリスト、十字架の信仰、唯聖書による純福音という風に変わってきて、形の上での教会生活がそのまゝつづいていても、今までのような意識ではなく、教会はある人にとってはあった方がよし、ある人にとってはない方がよし、救いは教会の外にもあると確信するようになった」(「聖書と私」)。
この頃から龍子は内村の高弟だった塚本虎二が発行していた個人雑誌『聖書知識』を毎号楽しみに読むようになっている。