武田徹 立花隆と両親に影響を与えた、長崎での生活とは。思想の原点を探る
日本支配下の北京で
こうして国内の総動員体制を海外の実効支配地域にも及ぼさせようとするのが日本政府の方針だったが、北京生活学校のアイディアは国家総動員法の制定や日中戦争の勃発以前に存在していた。自由学園と中国の縁は早くから成立している。1924年から34年まで中国からの教育視察団がなんどとなく羽仁夫妻のもとを訪れており、その縁で中華YMCA総幹事の馬伯援の長女が自由学園で学んでいる。34年には馬の紹介で山室周平・善子兄妹(救世軍の山室軍平大佐の子)を訪支家族使節と称して中国に派遣してもいる。三十五周年事業として中国での学校開設が計画されたのはこうした歴史的な経緯があった。
ただ、時局の影響も間違いなくあった。もと子は政府の要請や当時の好戦的な空気に積極的に応えている。日中戦争が開戦となった37年、『婦人之友』9月号にもと子は「衣を売りて剣を買へ」と題した巻頭文を寄せている。満州事変に際しては平和と非暴力を説いていたもと子だったが、この頃には立場を変えていた。「隠忍に隠忍を重ねましたけれども、遂に戦場に引き出されてしまいました。救いも試練も上から来ます。剣をとって戦えと云われているのです。この国の救われる道は唯、ひとり残らず戦場に出た気持ちで、本気になって戦うことです」。
こうした勇ましい文章は、戦後に羽仁もと子全集が編まれた時にほとんど採用されていない。北京生活学校も日本が中国大陸に実効支配力を及ぼしていた時期に開設された事情を無視するわけにはもちろんゆかない。1926年に羽仁吉一・もと子夫妻の長女・説子と結婚した歴史学者の羽仁五郎は『自伝的戦後史』で「自由学園も戦争に対してなにかしなければならなかったが、この戦争協力には岩波書店あたりも非常に弱って、普通は戦闘機などを献納するところを赤十字機か何か献納したのだが、自由学園はもちろん戦闘機などを寄付するわけにはいかないので、かれらのセツルメントを北京につくるということで『北京生活学校』を開設」したと書いている。北京生活学校は宣撫工作方針案の最初の項目である日本語普及に関して協力体制をとるものだった。
こうした北京生活学校は橘夫妻にとって、心休まる場所であったのではないか。
文部省から派遣されている経雄にしてみれば、非戦主義を貫いて国策に異議申し立てするような先鋭的なキリスト教であれば(そうした活動が日本の実効支配下にあった北京でなし得たとは思えないが......)近づきにくかっただろう。いわゆる無教会主義のクリスチャンは、1891年に第一高等中学校の講堂で挙行された教育勅語奉読式で内村鑑三が最敬礼をおこなわなかったとして不敬事件に発展したことに始まり、1937年には宗教的見地から「国家の理想」を論じた矢内原忠雄が東京帝国大学を追われるなど、時局との摩擦が絶えなかった。それに対して自由学園は、時局に迎合する傾向において、文部省の派遣教員の職を得て生活の糧を確保した橘家と通じる面がある。橘夫妻は、北京で自由学園と触れて、少しだけ肩の荷が下ろせた、そんな気持ちにもなっていたのかもしれない。