『じゃあ、あんたが作ってみろよ』谷口菜津子著 評者:トミヤマユキコ【このマンガもすごい!】
評者:トミヤマユキコ(マンガ研究者)
主人公の海老原勝男(えびはらかつお)は、よく言えば古風、悪く言えば時代遅れの男らしさを無自覚にふりまく男である。イケメン御曹司としてモテ人生を歩んできた彼が恋人に選んだ鮎美(あゆみ)は、筑前煮を上手に作ることができる、いかにも良妻賢母的な女性だ。
ふたりの交際は順風満帆に思われたが、ある日「もう5年もたつし責任取らなきゃって」思った勝男がレストランで鮎美にプロポーズすると「ん〜無理」と秒でフラれてしまうのだった。なんてこった。
勝男にとってはたしかに予想外のことだろう。しかし、読者にとってはそうでもない。なぜって、彼は恋人が作ってくれた料理に「しいて言うなら全体的におかずが茶色すぎるかな? もっと彩りを取り入れたほうがいい」とか言っちゃう男なのである。「鮎美ならもっと上を目指せるって意味でのアドバイスだから」じゃないんだよ。まったく残念なイケメンだな、勝男は。
ひとり身となった勝男は「女なんていくらでもいる」と合コンに繰り出すが、残念さは相変わらず。「筑前煮をおいしく作れるような子がタイプかな」と言って「筑前煮作れって昭和男子って感じ(笑)」と返されたり、バーで逆ナンパしてきた女子に「筑前煮とか和食が作れたらもっと魅力的だと思うな」と言って「筑前煮作ってくれる彼女見つかるといーね!」と突き放されたりしている。鮎美ならこんな反応はしないのに。戸惑う勝男だが、先述の通り男らしさを無自覚にふりまくタイプの人間なので、自分のおかしさをなかなか自覚できないのだった。
そんな勝男は、同僚のアドバイスを真に受けて(根はまじめでいいやつ)筑前煮を自分で作ってみることにする。経験者にはわかると思うが、筑前煮はものすごく手間のかかる料理だ。勝男は自ら手を動かしてみてようやく鮎美のしてくれていたことが当たり前なんかじゃないことに気づかされる。
というわけで、本作は、料理を通じて人間関係のよりよいあり方を模索していく物語である。手抜きだとバカにしていためんつゆや顆粒だしへの認識を改める勝男。ネットを参考に料理していたのが、料理上手の同僚に頼ることができるようになる勝男。いいぞ、がんばれ。人間的成長に必要なのは、自己啓発本やセミナーだけじゃない。料理もまた人間的成長の糧となるのだ。個人的には、勝男の兄が登場するエピソード(2巻収録)が忘れがたい。男らしくあらねばという呪いが勝男よりもはるかに強くかかっている兄の鷹広は、上手に弱音を吐くことができない。「おまえに話したところでどうにもならんよ」という言葉からは、九州男児で、長男で、家を継がなきゃいけない男の忍耐が滲む。兄の気持ちを少しでも楽にしたくて、とある料理に挑戦する勝男がいじましい。
勝男が自分を変えようと努力する一方、これまで良妻賢母を演じてきた鮎美にもまた自分らしさを巡る葛藤がある。「らしさ」に囚われがちな人々にとって、彼らの物語は決して他人事ではないだろう。
(『中央公論』2024年11月号より)