武田徹 立花隆と両親に影響を与えた、長崎での生活とは。思想の原点を探る

『評伝 立花隆』 立花家に影響を与えた長崎での生活とは
武田徹

海を渡った立花家

 長崎を離れて北京に生活の場を移したが、キリスト教との関係が絶たれたわけではなかった。最初、経雄は単身で415月に北京入りし、北京市高級中学校教員として7月には師範学校で教え始める。龍子は長男の弘道、次男の隆志を連れて一度、水戸に戻って待機、一年後に天津経由で北京に向かい再会している。

 この水戸での待機生活の中で母子は太平洋戦争開戦を迎えている。水戸では那珂西の実家で過ごしていたが、渡里にあった実姉の家を訪ねた時に、隆志をおぶったままラジオ放送を聞いたという。

 日本政府の役人となって大陸に渡った経雄の収入は長崎時代の倍となり、北京は物資も豊富で生活は安定していた。家は四合院と呼ばれる、一棟三室、東西南北に四棟が中庭を囲んで回廊風に並ぶ古典様式の豪邸だった。とはいえそこをおよそ十組の日本人家族で分け合って住んでいたので橘一家が全部を占拠できていたわけではなかったが。

 この北京での生活が立花にとって人生の最初に記憶しているものとなる。

 

鮮明な記憶のはじまりというのは、断片的ではあるけれど、この北京に子どもとしていた二歳の終わりから五歳の終わりまでの時代、つまり西暦でいうと一九四三年から日本が終戦を迎えた翌年の一九四六年までの間のことです。(立花『知の旅は終わらない』文春新書)

 その記憶は鮮明で微に入り細に入るものだ。

よく食べていたのは、中国人のコックさんが作ってくれたロウピン(肉餅)とか饅頭とかです。そのミートパイとかお好み焼きみたいな肉餅をストーブの上で片側ずつ焼いて食べたことをよく覚えています。(同前)

 北京時代で注目すべきは、北京師範学校の教師をしていた経雄が仕事の関係で羽仁もと子の自由学園北京生活学校との関わりをもったことだろう。

 自由学園は羽仁もと子、吉一夫妻が1921年に開設した女学校だ。「生活即教育」をモットーとして掲げる徹底した少人数教育を特徴とする。もと子は東京府立第一高等女学校在籍中にキリスト教と出会い、明石町教会で受洗し、明治女学校に進学後、一番町教会牧師だった植村正久に師事している。自由学園は外国人宣教師が開設した、いわゆるミッション系の学校ではないので、資金源となっていた欧米諸国との関係を断ち切られることで経営危機に至ることはなかったが、様々なかたちで国策に従う戦争協力を求められていた。

 19378月に国民精神総動員実施要綱が閣議決定され、学校も総動員体制への参加が求められた。自由学園でも9月には文部政務次官・内ヶ崎作三郎による国家総動員についての講演会を実施しているし、10月からは小学部で朝の礼拝前に皇居遥拝と君が代二唱を行うようになり、男子部には軍事教練の教官が配置された(自由学園一〇〇年史編纂委員会企画編集『自由学園一〇〇年史』より)。

 自由学園北京生活学校の開設はそんな時期と重なっていた。太田孝子「自由学園北京生活学校の教育 : 日中戦時下の教育活動」(『岐阜大学留学生センター紀要』1999年3月)などによれば「『婦人之友』創業三十五周年記念事業」として設置が予告された同校は、1938年に中国の15歳から18歳の現地の少女を募集して北京市土安門外旧鼓楼大街に開校し、終戦を迎えた1945年まで続けられた。

 日本政府は1937年に支配下にある海外地区の「すべての学校に日本語科を置き日本語を普及し日本化をはかる」「思想善導のために儒教精神を復興する」「診療救恤につとめ医療設備を完備する」「中国文化の研究と発揚につとめ、華北の農産、鉱物資源の開発培養をする」という宣撫工作の方針案を発表していた。

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