追悼 富岡多惠子  菅 木志雄「ここにいていいよ」と言われて55年。僕にとっては最高の人だった

菅 木志雄(現代美術家)/聞き手:島﨑今日子(ノンフィクションライター)

一九三五年、大阪府生まれ。まだフェミニズムやジェンダーという言葉がなかった時代に詩人として出発し、小説で「女」や「家族」「母性」や「性」を描き、後進に多大な影響を与えた富岡さんは、評伝ではセクシュアリティに踏み込み、それぞれの分野で大きな賞を次々と受賞した。文楽や歌舞伎や大阪を愛して、その方面での著作も多い。追悼文に作家の黒川創さんは〈富岡多惠子の登場が、「女流文学」から「女性文学」への画期をなした〉と書き、社会学者の上野千鶴子さんは、〈戦後文学史の中で唯一無二の存在である〉と記す。そんな作家が、亡くなる十年以上も前に七十五歳で筆を折っていた。


 それはピタリと止まりましたね。「もう書かないんだ。文章はもうやんぺ」と僕に言って、実際、書きませんでした。そばにいると、疲労してるなぁというのはよくわかる。書こうと思ってスッと書けるわけじゃないですよね。血肉を削って書くわけですよ。それは普通じゃないエネルギーが必要なのはわかるの、僕はアーティストだから。彼女、四十代のときは、鬱になりましたからね。仕事が最高に忙しい時期で、神経が尖って、寝られない。寝不足の上に仕事がどんどん来て。そういう状態で書いていくのは大変だなと見ていたけど、しょうがないから放っておくしかなかった。二、三年、鬱が続きましたね。

 だからいつまで続くかなと考えたとき、限度があると僕は思っていました。その限度が一体いつなのか。それは、やっぱり、自分でいつケリをつけるかという問題になるんですね。人は「やめろ」と言わないし、自分が「書けなくなったらそこでやめよう」と思わない限りはやるんだから。彼女の態度や様子を見ていると、原稿を書くのがだいぶ遅れてるなぁとか、わかるわけです。で、原稿の依頼が来ても断るようになって、どんどん仕事を減らしていって、もう原稿用紙に向かうことはなくなった。

 僕から見たらまだ書く能力はあったけれど、ああ、覚悟を決めたんだなって思いました。一方では、たらたら書くよりは、自分がそう言ったのならやめたほうがいいとも思っていたので、ただ黙って見てました。作家でもアーティストでも、自分の仕事の程度と時間割、そういったものがなんとなくわかるんですよね。いつまでできるかとかどういうふうにすればいいんだとか、それは日常的にずっと頭の中で考えているんだから。彼女には、ここまでいったらもういいという思いがあったと思いますね。

 書かなくなってからは、本を読んだり、散歩したり、掃除や洗濯をしたり。掃除も洗濯も、料理も好きな人だったんです。掃除、洗濯が好きなのは、要するに汚いのが嫌いなのよ。だから僕もきれいに身仕舞いしないと、言われますからね。ただ僕の仕事は大体が汚くなる仕事だから、アトリエから車で七分のところにある家に戻ったら、全部着替えてきれいにして顔を出してました(笑)。でも、掃除するのも肉体的に結構大変ですよ。で、あるとき、ルンバっていうロボット掃除機、あれ、買ったんです。それだけじゃなくて、自分で掃除したりもしてましたけど、いつの頃からかそれができなくなったから非常に苦しかったんじゃないかと、僕は思う。

 彼女が汚いのが嫌いだったのは服だけじゃなくて、人間も嫌いなわけよ。恐らく思想も、考え方もそうだったと思いますよ。ただやたらきれいがいいというよりも、普通にきれいならいいんですよ。だから、きれいにして本当のところを見せるのが大事だったと思うな。

 ここ二、三年の富岡は家に篭もりっきりでした。コロナで体調を壊したわけではなく、思っている以上に体力が落ちてきていましたね。町にも行かないし、東京にも出ないし、旅行にも出ないし、好きな歌舞伎も見ない。時々、雑誌が届いて、そこに知ってる人が出ていると、「今、この人はこうしてるんだな」とは言ってましたね。晩年に付き合いのあった作家というのは黒川(創)君だけだから。

 とくにガラッと変わったという印象はないんですけど、一昨年あたりから、彼女が「耳が聴こえない」「音がする」と言いだした。僕が「難聴だよ、医者に行かないとダメだ」と言っても、医者に行くのを嫌がって、結局行かなかった。で、だんだん聴こえなくなってきちゃったの。人間は耳から入る情報がなくなるとものすごく老けるというけれど、両耳が聴こえないんだから、そのストレスは大きかったろうなと、今、思っています。無理やりにでも医者に連れて行って、補聴器を買えばよかった。

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