『水俣曼荼羅』監督:原一男 評者:三浦哲哉【気まぐれ映画館】
評者:三浦哲哉
映画監督がオーディオ・コメンタリーで解説中に、自作の映像を見ながら感極まってさめざめと泣くのは稀有なことだろう。鬼才・原一男『水俣曼荼羅(まんだら)』(2020)はその稀有なケースである。本編それ自体が途方もない価値をもつのは無論のこと、DVDに特典として付いている監督のエモーショナルなコメンタリーを聞きながら見ることで、作品がより克明に立ち現れる。
『水俣曼荼羅』は、いまだ終わらない水俣病の現在を追った3部構成、全長372分の大長編である。この病気の新解釈を提示し(原因を末梢神経でなく脳に特定した)、患者認定基準の抜本的見直しを迫る医師たち。患者さんたち。水俣内外の支援者たち。その群像をなんと15年にわたり活写した一大叙事詩である。2021年に劇場公開され、DVDの発売が今年の2月。
さて、コメンタリーは以下の四つの軸に沿って、熱を帯びた調子で語られる。第一に、制作にまつわる客観的な事実関係の説明。どのような経緯があってこれらの場面が撮られたのか。何が撮れ、何が撮れなかったのか。作品の興味深い生成過程が浮かび上がる。第二に、ドキュメンタリーの演出論が示される。「人間の感情」に迫ることを自分に課す原監督は、どうすれば内に秘められたエモーションを劇的に表現できるのか、そのためにどんな試行錯誤をしたのかを、本作を生きた例として解説する。第三に、作品にこれまでなされた批判への反論が試みられる。監督は愛する自作を、熱を込めて擁護せずにいられない! 以上に加え、第四に、監督自身が感極まり、絶句するほかなくなるときがある。それこそ、映画の核心部分が現れるときだ。
その最たる場面は、映画の終盤に訪れる。水俣病をめぐる裁判に、医師の立場から長年並走してきた二宮正さんが、裁判の後の報告会の席で、これまで抱えてきた想いを吐露するシーンのことだ。勝訴の結果に顔を上気させる列席者のあいだで、ひとり自前の酒瓶を手放さない二宮さんのただならぬ気配を、まずカメラが捉える。何かが起きそうだ。いかにも一本気なその顔は紅潮している。やおら二宮さんは立ち上がり、酒で呂律がまわらなくなりつつも、切々と訴える。メチル水銀中毒による感覚障害の現実がどういうものか。繊細な味のちがいも、愛を交わすよろこびも感じなくなるということが、どれほど取り返しのつかないことか。「裁判勝っても負けてもどうでもいいの......嫌なの、そういう感覚がなくなるちゅうのが!」。
複雑な、あまりに複雑な想いが鮮烈に表出される。と同時に、この問題のあまりの巨大さ、一人ひとりの人生に及ぼした影響の重大さが、まざまざと浮き彫りになる。コメンタリーとともに映画を辿ってきたことで、患者さんたちの日常と化してしまった感覚障害の現実を、本作のカメラがいかに慎重かつ丹念に記録してきたかがはっきり理解できる。二宮医師の感情が私たち観客に伝わるのは、本作の緻密な372分があったからだ。無駄な箇所など本当に一つもなかったと確信できる。
(『中央公論』2023年10月号より)