令和5年谷崎潤一郎賞発表 『水車小屋のネネ』津村記久子

津村記久子
撮影:霜越春樹
 中央公論社創業80年を記念して創設された谷崎潤一郎賞は、昭和40年以来、58回にわたり毎年優れた文学作品を選び、それを顕彰してきました。
 本年は第59回を迎え、令和4年7月1日より令和5年6月30日までに発表された小説および戯曲を対象として、選考委員による厳正な審査を重ねてまいりました。その結果、上記のように津村記久子氏の『水車小屋のネネ』を本年の受賞作と決定いたしました。
 ご協力いただきました各位に御礼を申し上げますと共に、今後いっそうのご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。

令和5年10月10日 中央公論新社


(『中央公論』2023年11月号より)

【受賞作】
水車小屋のネネ
津村記久子(毎日新聞出版)

〔正賞〕賞状
〔副賞〕100万円、ミキモトオリジナルジュエリー


[選考委員]
池澤夏樹、川上弘美、桐野夏生、筒井康隆、堀江敏幸


選評

池澤夏樹

●水車小屋のネネ

 十八歳の姉が八歳の妹を連れて家を出て、遠い土地へ移って自活を試みる。若すぎるし、普通でない暮らしかただし、困難は多い。しかし結局は二人の新しい人生は軌道に乗る。周囲の人々の、支援でも善意でもなく、少し手を貸すくらい当然という姿勢が支えになる。これが一九八一年の話。
 場の設定がうまい。田舎町で、水車で動かす石臼の自家製粉の蕎麦屋と、その水車小屋。そこにネネという名のヨウム(オウムの一種)がいて、これがよく喋るし歌うし、しかも石臼の番をしている。この鳥、知能は三歳児なみで寿命は五十年とか。姉は蕎麦屋で働き、妹は小学校に通う。
 そこで話は十年後に飛ぶ。姉は裁縫の腕を生かして手芸店の正社員になり、妹は農産物を扱う会社に勤めている。新しい人物が登場する。
 そしてまた十年後。二人の境遇はまた変わっているがネネは健在でみんなの中心にいる。
 こうして話は十年ごとに進んで二〇一一年までの二人を追い、その十年後のエピソードで終わる。
 その時々の日本の事件が織り込まれ、生活環境の変化も細かく描かれる。多くの登場人物を絡める構成もうまい。
 終わりに近い方で老いた学校教師が言う──「誰かに親切にしなきゃ、人生は長くて退屈なものですよ」。


川上弘美

●小説的真実

 姉妹が、母親(姉の短大の入学金を使いこんで平然としている)とその恋人(年のゆかない妹に暴力をふるう男であり、母親はそれを看過している)のところから逃げだし、二人きりで生活を始める、という導入が、非常に現代的な問題をあつかっているので、その先はどのような小説のゆきかたとなるのだろうかと思いながら、読み始めた。
 姉妹の生活は、なかなかに厳しい。けれど、その厳しさは、小説のためにつくられた厳しさではなく、小説じたいがおりなされるにしたがってあらわれる、小説的真実をふくむ厳しさだった。このことに、まず感銘を受けた。姉妹を助ける人たちも、多くあらわれる。かれらのふるまいも、「親切」というひとことでは割り切れることのない、助ける人たちそれぞれの人生のなりゆきとしての互助でもある、というふうに、やはりここにも小説的真実がしっかりとあらわれるのである。
 物語の中の時間は、四十年流れる。その間の変化も、その時々の姉や妹やとりまく人びとの様子も、気持ちも、そしてヨウムのネネの言葉も、すべてが「この小説の中では、ものごとはきっとこう進むのが本来なのだな」と思わせてくれる。小説というものが「本来」を感じさせるのは当然に思えるが、そのように小説を書くことは実はとても困難なことである。作者は、小説を自分の思いに沿わせず、小説自身の思いに沿わせている。だからこそ、「本来」があらわれたのである。
 幸福な読書だった。


桐野夏生

●水車が回るように

 物語の中心にいるのは、水車小屋の番人、「ネネ」という名の人間ならぬ、ヨウムである。
 不覚にも私は本作を読むまで、ヨウムという種類の鳥がいることを知らなかった。ヨウムは、人間で言えば三歳児なみの知能があり、人間と会話もできるし、さらに平均五十年も生きるのだという。ヨウムが長生きなので、飼い主の方が代替わりすることも多々あるとか。と、こんな豆知識を仕入れながらの読書だったが、ヨウムが長生きであるからこそ、姉妹の四十年にもわたる年代記を紡げたのだと思うと、作者の発想は奇想とも言えよう。
 メルヘンを思わせるタイトルだが、物語の始まりはシビアだ。母親が自分に黙って短大の入学金を遣ってしまったこと、そして母親のパートナーが妹の律に暴力をふるうと聞いて、姉の理佐は律を連れて家を出ることを決心する。住居付きの就職先は、水車小屋のある蕎麦屋。その水車小屋の番人として、ヨウムの「ネネ」がいるのだった。
 本書には親との関係がうまくいかない者、死別、あるいは不幸な事故などで、家族という後ろ盾を失った人々が登場する。それらの人々が出会って生きてゆく話なのだが、大きな事件や事故が起きるわけではなく、水車が回るように日々が過ぎる。作者は抑えた筆致で淡々と、そして人物間の付かず離れずの距離感が出せるよう、文体をうまく工夫して書いている。この筆さばきによる温かな味わいは見事である。そして、家族万歳、家族万能の物語でないことが、この作品の強度を深めている。


筒井康隆

●ネネとりっちゃんと

 その作品の主人公や登場人物たちと別れるのがつらい、そんな思いをした小説の愛読者は多いと思う。今回の受賞作品で小生はそんなつらさを味わった。最初はメルヘンか児童文学かという書き出しだったが、とんでもない。凄い小説だった。出だし近く、主人公である姉妹の母親とその情夫の増村精一郎が出てくるが、この二人が極端に悪く描かれているのに対して、ヨウムのネネも含めて水車小屋に来てからの周囲の人たちがすべていい人ばかりなのが少し異常と思えるほどだった。しかしそれが実は作者の主張であることにすぐ気づかされて納得する。
 次第に年代記風になり、後半に入って外国人労働者という現代的な問題が出てきて以降は各時代のさまざまな事件などが描かれる。ネネも含め、人物すべてがいい人ばかりでありながら個性が際立っているから混同することはない。戸惑うことと言えば語り手の変化くらいであろうし、時折「(ネネが)電柱の杭に飛び移って何段か上がった」など、読者によく伝わらない描写や表現があるものの、まあ瑕瑾であろう。昭和から令和にかけての歴史小説とも言え、テーマもはっきりしていて快い。心憎いばかりに読者を感情移入させる傑作。最後はネネやりっちゃんと別れるのがつらかった。小生、老齢なのでそろそろ選考委員を辞退しようかなどと考えていたのだが、こんな作品に出会えるのはこの賞しかないので、口にはしなかったのである。


堀江敏幸

●希望を汲みあげる時間

 いくつもの時間の層が重ねられ、そのひとつひとつの層に語りがゆっくりと染みわたり、最後に澄んだ感情の地下水となって流れ出す。人物設定や全体の構成には、どこにも負荷がかかっていない。それでいて、個々の表情が読者の胸に生き生きと刻まれる。
 十八歳の姉が八歳の妹を連れて家を出、親の手を借りずに自活をはじめた一九八一年を起点に十年刻みで語られる物語の中心は、水の豊かな地方の町の、石臼をまわす蕎麦屋の水車小屋で、空挽きしないように見張りをしているヨウムのネネ。四十年というながい期間を生きるに十分な寿命と、監視役を担いうる知能を有し、基本的にだれからも等距離にいて、偏見なしに事象を眺められるこの鳥の役割はじつに大きい。
 姉妹はやがてあたらしい家族を得る。二人の成長と成熟は、手を差し伸べ、支えてくれた周囲の人々の老いや死と同時進行である。このあたりまえの事実が、触れられていない時期をあえて残した展開のなかで淡々と示される。ネネは不死ではない。しかしその存在と来るべき不在をつうじて、日々を送るという営為じたいにそなわった希望の芽は失われることなく読者に伝えられるのだ。
 良心や幸福にかたちを与えるのは、悪い気や絶望を描くよりもはるかに難しい。本作はその難しいことを、石臼で挽いた言葉と、力を入れているように見せない技術をもって、みごとに描き切った。

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