- 「きちんとする」方向へといろんな改革が進むなかで
- 現代思想はすなわち「差異」に注目する
- 「外」に向かっていく運動が言祝がれなくなった理由
- 本当にユートピアなのか
- 秩序の攪乱を拒否しないことで不安は鎮まっていく
「きちんとする」方向へといろんな改革が進むなかで
今なぜ現代思想なのかを説明させてください。
大きく言って、現代では「きちんとする」方向へといろんな改革が進んでいます。これは僕の意見ですが、それによって生活がより窮屈になっていると感じます。
きちんとする、ちゃんとしなければならない。すなわち、秩序化です。
秩序から外れるもの、だらしないもの、逸脱を取り締まって、ルール通りにキレイに社会が動くようにしたい。企業では「コンプライアンス」を意識するようになりました。のみならず、我々は個人の生活においても、広い意味でコンプライアンス的な意識を持つようになったというか、何かと文句を言われないようにビクビクする生き方になってきていないでしょうか。
今よりも「雑」だった時代の習慣を切り捨てることが必要な面もあるでしょう。しかし改革の刃は、自分たちを傷つけることにもなっていないでしょうか。
こうした現代の捉え方を、ここではごく大ざっぱに言うだけにします。じゃあ具体的にどういう問題があるかと例を挙げると、その例だけに注目して拒絶され――「それをきちんとするべきなのは当然だ」と問答無用の反発を受けて――、話を聞いてもらえないかもしれないからです。
ですから時代の大きな傾向として言います。現代は、いっそうの秩序化、クリーン化に向かっていて、そのときに、必ずしもルールに収まらないケース、ルールの境界線が問題となるような難しいケースが無視されることがしばしばである、と僕は考えています。
何か問題が起きたときに再発防止策を立てるような場合、その問題の例外性や複雑さは無視され、一律に規制を増やす方向に行くのが常です。それが単純化なのです。世界の細かな凹凸が、ブルドーザーで均(なら)されてしまうのです。
物事をちゃんとしようという「良かれ」の意志は、個別具体的なものから目を逸らす方向に動いてはいないでしょうか。