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誰も責任をとらない日本軍 組織の病~『沖縄決戦』八原博通と瀬島龍三の発掘資料から

戸部良一(防衛大学名誉教授)×武田知己(大東文化大学教授)

【対談】戸部良一×武田知己

「昭和史の天皇」が共感を得た理由

─武田先生は『失敗の本質』、そして本日のもう一つのテーマ「昭和史の天皇」(https://www.yomiuri.co.jp/national/20200812-OYT1T50267/読売新聞社会部記者によるのべ一万人への取材と文書資料を基に、昭和初期から終戦までを証言でつづった。一九六八年菊池寛賞受賞。単行本全三〇巻、中公文庫版全四巻〔現在は電子書籍で販売〕などを刊行。)から、どんな影響を受けてきましたか。

武田》僕らの世代において印象的な『失敗の本質』について、著者の戸部先生とお話ができるのは光栄の至りです。この本から学んだのは、ある特定の歴史観で歴史をとらえないということです。「昭和史の天皇」にも同じことが当てはまります。一つの歴史観にこだわらず、何が起きたのかという出来事を中心に描いています。一九六七~七五年に読売新聞で連載されましたが、十数年後の『失敗の本質』は、社会科学的な観点からの分析へと発展しており、歴史学の展開を実感できます。

戸部》「昭和史の天皇」は個人の歴史を伝えているように見えて、単なるノスタルジーではありません。戦後二〇年経って落ち着いたので、今まで何をやってきたのかもう一回考えようという時期だったのでしょう。

武田》話す側も「そろそろ話してもいいか」と思える、一区切り感があったのかもしれません。

戸部》それ以前にも戦争について語った人たちがいたと思うのですが、他方で、語らなかった、語れなかった人たちもいた。戦後の混沌とした状況ではとてもそういう気分になれないとか、自分が考えたまま言うと批判されるかもという懸念があったのでしょう。そういう思いを抱いた人たちが、政治的な安定期に入って、ようやく証言できるようになった。もちろん、生き残りがたくさんいたことが一番大きい。ですから、共感を抱いた読者が多かったのでしょう。
それと、連載を始めた翌年が明治百年。百年の来し方を考えようという気運があったのでしょうね。

武田》戦後に戦前の証言を聞いたというと、すごく昔のことを聞いているような印象がありますが、実は三〇年ほど前の話。今で言えば、平成初期の証言を聞く感覚です。

戸部》同時代性があるのですね。近過去に日本が何をしてきたのか、どこで間違ったのか、落ち着いたところでもう一度考えようという意識がどこかにあります。それが出ているので、共感できたし、客観的なデータとしても使えました。

武田》「昭和史の天皇」に携わっていた元記者の松崎昭一さんのご自宅を戸部先生と一緒に訪れた時にいただいた資料の中に、たくさんの手紙がありました。読者からも、また『沖縄決戦』の著者であり証言者の八原博通(やはらひろみち)さんからも感謝の手紙が届いています。国民の各層から初めて自分たちの思いを表現してくれた歴史だと受けとめられたのではないでしょうか。

人材を活かせなかった軍隊

─松崎さんが八原さんを訪問した際に手記の存在を知り、『沖縄決戦』の出版に結びつきました。「昭和史の天皇」の取材から生まれた本と言っていいですね。

戸部》取材テープを聞くと、八原さんが「神(じん)君は先帰って悪口を言うとったと聞いた」と言っています。沖縄防衛を担当する第三二軍の航空参謀を兼務していた陸軍軍人の神直道(なおみち)さんの八原評は、宮崎周一(みやざきしゅういち。最後の参謀本部第一部長)の日記で確認できます。第三二軍が非常に消極的だと批判されるのです。第三二軍では四五年四月初旬に一度攻撃を実施すると決断をしたところ、南部にアメリカ軍が上陸する脅威が高まったので攻撃を中止したのですが、『宮崎日誌』にはそれに対する批判があり、長勇(ちょういさむ。第三二軍参謀長)は威勢がいいのに、実際は「攻撃精神旺盛なる軍人とは申しがたし」と手厳しい。
 六月中旬、神さんは、航空決戦のために沖縄戦の実情を伝えに東京に戻った。そして宮崎作戦部長に、長軍参謀長と八原参謀の間で作戦思想が一致していないし、八原さんの人格が問題だと報告する。
 おそらくこうして大本営の中で八原像が作られていった。宮崎さんも八原さんに対して厳しかったと言われていますよね。残念ながら、沖縄戦の実情や、八原さんの基本的な考え方は大本営に伝わらなかった。

─もともと宮崎さんは本土決戦思想で、八原さんと考え方が異なりますが、八原さんの慎重さや意図が中央の大本営に伝わらずに、消極的だという批判が露骨に出ていますね。

戸部》「戦略持久」というよりは「消極的」だと伝わっていますね。ところが、八原さん自身も本土決戦論は否定していない。むしろその準備のために時間を稼ぐのだと。なるべく持久して敵に損害を与えようと考え、実行している。宮崎さんの本土決戦論と八原さんの戦略持久は、実は矛盾していないのです。
 テープ起こしを読んで「えっ」と思ったのは、沖縄へ充当される予定だった姫路第八四師団の派遣を、宮崎さんが途中で敵潜水艦に襲われるかもしれないからと中止にしますよね。松崎さんが、「あれもちょっとひどい話だと今は思いますね」と水を向けると、「送ってきたらまたあの、作戦の立て直しをやらなきゃいかんと。ちょっと面倒だなという感じがしましたね」と。持久でやるのだと臍(ほぞ)を固めているところが、非常に印象的でしたね。
 ところで、『失敗の本質』ではないですけれども、八原さんは『沖縄決戦』の中で日本軍の特徴を語っていますが、見事な分析ですね。

─高級将校に対して「感情的衝動的勇気はあるが、冷静な打算や意志力に欠ける」と批判し、科学的な検討に欠けると指摘しています。

武田》八原さんは批判的な観点を持っています。一方で、長さんや牛島満(うしじまみつる)さん(沖縄戦を第三二軍司令官として指揮し自決した)を嫌いでない。

─精神力を過度に重視などと批判はしていますけど、最後に牛島さんと長さんが自決する場面は特に思い入れを込めて書いていますね。

戸部》八原さんは合理主義を徹底した人ですけれども、だからと言ってカチカチの朴念仁ではなかった。人の思いや情熱に共感を覚えるタイプだったのではないでしょうか。でも、このような見事な軍人がなぜ沖縄戦にしか出てこなかったのですかね。

武田》ある種の左遷で沖縄に赴任したのでしょうか。

戸部》大東亜戦争が始まってさまざまな作戦があったにもかかわらず、八原さんがなぜ陸軍大学教官に留まっていたのか疑問です。陸軍という組織は、人的資源の使い方に問題があったのでしょうね。

「瀬島ノート」に見る実像と虚像

─話を次に進めますが、先生方が松崎さんからいただいた資料の中には、八原さんの書簡とともに、「瀬島ノート」がありました。瀬島龍三(せじまりゅうぞう)というと、シベリア抑留について尋ねる取材が多いのですが、あえて開戦時について尋ねています。

武田》「瀬島ノート」は「昭和史の天皇」の本記にほとんど盛り込まれなかった瀬島さんへの取材記録です。音声も残っている。ここで話したことが、後の自伝『幾山河』(一九九五年刊)の土台になっていると思います。

戸部》書籍『昭和史の天皇』最終巻のテーマは日米交渉ですが、唐突に終わっています。それは本社の方針でしょうが、おそらく「瀬島ノート」は、使うつもりだったけど使われなかったものでしょう。面白いのは、インタビューに同期生の原四郎(はらしろう)さんが同席していること。陸軍士官学校で一番と二番。二人とも超優秀な軍事官僚です。原さんが「開戦してから中期以降、まあ、十七、八年頃からは、瀬島君が全軍作戦の主任者というところじゃないですか」とヨイショしている。(笑)
 結論的に私の印象を言うと、たしかに瀬島さんは長期にわたり大本営参謀だったし、一時は「参謀本部の天皇」と言われるほど実権を持っていたとされますが、開戦前後について原さんのヨイショは虚像だと思います。だって瀬島さんは一九一一年生まれ、開戦当時三十歳で、班長でもない人が実権を持つはずがない。もし持っていたとしたら逆にすごい組織だと思いますね。

─それこそ『失敗の本質』ですね

戸部》今と違って、五十歳を過ぎればお年寄りの時代ですから、今の三十代とは違うかもしれないけれども、そんな実権は持っていなかったはずでして、例えば、南部仏印進駐を見合わすべきという服部卓四郎(はっとりたくしろう)作戦課長に宛てた上申書を本当に書いたのか。それを、評論家の保阪正康さんが問題にしていますが、たとえ本当に書いたとしても、影響力があったかどうかはわからない。

武田》ちょっと想定して書いておけ、と上司から命じられることは、まあ、ありうることですよね。

戸部》瀬島さんは上から言われたことをきちんとこなす能吏ですね。こういうケースもあります、別のケースもあります......と想定して整理し、幕僚の役割に徹している。きちんと分析して、文章もおそらく非常にうまく、要約力もあって「字がうまい」(「瀬島ノート」に記載された原四郎の評)。

武田》やれと言われたことはきちんとやる。「瀬島ノート」によれば「ひとたび決定された事項については、自分の意見はその時点で......我々は小さい時から、決定までには意見は言うが、決定されたら、決定に直ちにフォローしていくという、そういうしつけを受けていますからね」と語っています。
 大江志乃夫さんの『日本の参謀本部』のあとがきに、瀬島さんが登場します。瀬島さんは戦後、長く伊藤忠商事に勤め、第二次行政臨時調査会の委員に就いたが、「戦時中の陸軍の若いエリート・スタッフ時代の反省が現在の生活にどう生かされているのであろうか」と、戦争当時をまったく反省していないかのような取り上げられ方でした。もっとも、こうした評価を鵜呑みにはできませんが。

戸部》かわいそうな面もありますね。元軍人たちが企業で活躍したことは功罪両面あるとはいえ、一概に否定すべきことではありません。戦後の復興にもそれなりの貢献をした。ただ、開戦当時の瀬島さんに、戦後のイメージを重ねるのは間違いです。

八原と瀬島の違いとは

武田》瀬島さんも八原さんも中隊長を務めていませんし、同じ陸大出身の優等生で同じ能吏だけど、二人はちょっとタイプが違いますね。片や前線、片や中央という違いなのか。

戸部》もう一つの違いは八原さんはアメリカに留学していますが、瀬島さんは留学していないことです。一~二年留学すると、考え方に何らかの影響を受けるだろうと思います。違う文化に触れて、世界にはまったく違う発想をする人たちがいることに気付くか気付かないか。

武田》「瀬島ノート」を見ても、当時は若かったとはいえ、自ら判断した形跡がありません。たとえば「それじゃ国家として、対米戦争を決意しておるか、何も決意しておらない。むしろ、参謀本部の中でも、軍令部の中でも、対米戦争というようなものは、できたら回避したいという空気も、ぼくはあったと思います。できるだけ回避したいという考えです」といった具合です。

戸部》戦争が終わってから反対だったとか、南部仏印に行ったら大変なことになると思っていた、と言う人は少なくないですが、本当に当時、そう思っていたかということです。
 原四郎さんが何度も言っているのは、アメリカと戦争をする気はなかった。だけど譲歩もしたくない、と。じゃあどうするのですかっていう話ですが、それを自分たちで考えることはしない。

武田》晩年に瀬島さんがテレビ番組に出演した時、同じようなことを言っていました。アメリカと和平を結ぶことは屈服することである。和平を結ばないのは戦争をすること。屈服も嫌だ、戦争も嫌だ、と。

戸部》彼らからすると、答えは上司が出すのだということなのでしょう。われわれは屈服しない。戦争もしたくないという前提で計画は作る。
 瀬島さんの本を読んでいてよくわかるのは、幕僚は責任を持っていないという意識です。ですからあまり反省もしていない。「上申書を取り上げてくれなかった。アメリカなんかと戦争したくはなかった」と言う。上にいた人たちが責任を持つべきだという考えですよね。
 八原さんの場合には末端とはいえ、自分の決定したことで戦をやっているので、彼は最後まで責任を感じている。二人の回想録から受ける印象の違いはそこです。

武田》八原さんは苦しんでいる。他方、瀬島さんの能吏ぶりを考えるにつけ、そこにやはり組織の病があるのかもしれません。「下剋上」という言い方をよくするじゃないですか。当時、瀬島さんのように起案する立場の人たちが、力を持っていたと考えるべきなのでしょうか。

戸部》そこは非常に難しいですが、起案する人は起案したものが上に上がっていくから、自分に力があると思いますよね。だけど上司からすると、自分が命じたことを基本に据えて起案されたものだから、よほどその趣旨に違いがなければ採用して上まで上げるでしょう。私は書けと命じた側に実権があったと思います。

「できません」と言えるか否か

武田》やはりボトムアップというのは、官僚組織の在り方を考えれば普通のことなのですね。

戸部》ただ、ボトムアップは戦時の組織じゃないですよね。対米戦争前とはいえ、中国とは戦争をしているし、戦時であるのに組織それ自体が平時のまま動いている感じです。それはいろんなところに表れており、例えば沖縄戦の時にも、三月頃に人事の定期異動があった。この期に及んでそんなことをしているのかと思うのですが......せめて抜擢人事ならと思いますが、それもない。平時の定期異動です。
 いくら瀬島さんのように起案者が優秀でも、上が曖昧である限り下の方も曖昧にならざるをえません。『失敗の本質』的に言えばトップの戦略目的が曖昧であれば、部下がどんなに優秀であっても曖昧な起案しかできない。するとやはり問題はリーダー不在ですね。杉山元(すぎやまはじめ)参謀総長なんてどこで出てくるんだろうな、と思うくらい出てこない。上がはっきりした目的やビジョンを持っていなければ、八原さんのような現場の人も、瀬島さんのような中央の末端に属す人も動きようがありません。

武田》当時の英米の指導者が明確な将来像を持てていたのかというと、それもかなり怪しいのですが、日本は戦略が一つではなく、南進か北進か、ドイツと組むのか違うのか、戦略が分かれていますから、指導者層の間でビジョンが錯綜しています。
 戦略目的が曖昧だから瀬島さんは南進も準備して、北進も準備してという何通りかのパターンを想定するのが当たり前になってしまっている。

─北も南もというのは戦略的には無理がありますが、それをうまく起案できる能力があったのでしょうね。

戸部》でも、本当に能力のある人だったら「できません」と言うはず。そういう能力のある人たちは残念ながら中央にはいません。八原さんは「できません」と言うタイプですが。

武田》八原さんのような人は孤独な戦いを強いられてしまう。

─高度に官僚化された軍隊のような組織では、「できません」と言う人は周辺に追いやられ、「できない」と思いつつも起案できる人が中央に残る、ということでしょうか。

戸部》「できません」と言うこと自体がいつもいい回答であるわけはなく、本当に優れた人は最後まで上司の指示を前提として考えて考えて考え抜いて、その結果やはり「できません」と言うものでしょう。考えもしないで「できません」と言うのは、上司からしたらたまりません。(笑)

武田》八原さんは、牛島さんは自分が上げたものを何も見ずにサインする、と。こういう上司だったら俺が頑張らないと駄目だと書いていました。これもある意味で能吏的ですね。牛島さんも、人を使うのがうまかったのかもしれませんが。

戸部》よく日中戦争時の「海軍トリオ」(米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長)が評価されますが、沖縄戦の牛島、長、八原のトリオも見事です。八原さんが長さんを批判しつつ、でも愛情を持っているのは、それなりの上司の在り方だったのでしょう。

─リーダーも時によっては、「できません」と言うべきでしょうか。

戸部》日米開戦の見通しを問うた近衛文麿首相に対して、山本五十六が「是非やれと言われれば初め半年や一年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、二年三年となれば全く確信は持てぬ」と答えたのは有名ですね。でも山本さんは「できません」と言うべきだった。もちろん海軍大将として、組織を守るために簡単には言えないかもしれません。でも、国防や安全保障の本質を考えれば、「できません、戦えません」と本当は言うべきだった。これは、組織のリーダーとしての一つの心構えではないかと思います。

(以下略)

*司会・前田啓介(読売新聞社文化部)

*取材協力・読売新聞グループ本社知的財産部

*対談時の戸部良一氏の動画が以下でご覧いただけます。https://www.yomiuri.co.jp/stream/88/15856/1/

〔『中央公論』2020年9月号より改題して抜粋〕

戸部良一(防衛大学名誉教授)×武田知己(大東文化大学教授)
◆戸部良一〔とべりょういち〕 1948年宮城県生まれ。京都大学法学部卒業、同大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。博士(法学)。共著に『失敗の本質』、著書に『ピース・フィーラー--支那事変和平工作の群像』(吉田茂賞)、『自壊の病理』(アジア太平洋賞特別賞)、『昭和の指導者』『戦争のなかの日本』など。   ◆武田知己〔たけだともき〕 1970年福島県生まれ。上智大学文学部卒業、東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程中途退学。博士(政治学)。著書に『重光葵と戦後政治』、共著に『大正・昭和期の日本政治と国際秩序』『近代日本のリーダーシップ』『自民党政治の源流』『資料で学ぶ日本政治外交史』など。