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宗教弾圧と「聖戦」 永岡崇

天津教事件と曼荼羅国神不敬事件から見えるもの
永岡崇(駒澤大学総合教育研究部講師)
 戦前日本で起きた宗教弾圧。この論考では、2つの事件を中心に論じ、その内実とはいかなるものだったのかが検討される。そこからは従来の枠組みからは見えにくい論点も浮上してくる。
(『中央公論』2022年1月号より抜粋)

善悪二元論の罠

 日本にかぎった話ではないが、判官びいき的な心性というか、権力者に虐げられた者たちに人々が共感し、さらには彼らを褒めたたえるという現象は昔から存在してきた。

 宗教にかかわる事例も多く、たとえば法然や親鸞らが流罪になった鎌倉時代の念仏弾圧や、江戸時代のキリシタン弾圧などがあげられる。こうしたものは「法難」「殉教」と呼ばれて、神聖な受難の体験として語られてきた。過酷な試練を耐え抜いたからこそ、その信仰は尊い、というわけだ。

 昭和のアジア・太平洋戦争中に数多く起こった宗教弾圧もご多分に漏れない。1930年代から敗戦にいたる期間に、有名なところでは大本(おおもと)(大本教という通称で知られる)や、ひとのみち教団(現在のPL教団)、創価教育学会(創価学会の前身)などが、不敬罪や治安維持法違反といった容疑でつぎつぎと取締りを受けた。過酷な拷問を受けて精神に変調をきたした人や、獄中で亡くなった人も少なくない。

 戦後、進歩的な知識人の間では、こうした受難の経験が、「近代天皇制下の宗教者が負った苦難と栄光」として神聖化されていく(小池健治ほか編『宗教弾圧を語る』)。そこでは、自分たちの信仰を守ろうとして犠牲になった宗教家たちと、天皇崇拝や国家神道を国民に強制し、信教の自由を踏みにじった天皇制国家という、善と悪のわかりやすい対比が強調されたのである。

 しかし、この手のわかりやすいストーリーはだいたい怪しいと思ったほうがいい。たとえば国家が国民に強制したという国家神道とは、具体的に何を意味するのだろうか。最近の研究成果によると、政府のなかですら、国家神道なるものの中身は思いのほかぼんやりとしたものだった(そもそもこの概念自体、現在の意味で用いられるようになったのは占領期、GHQによる神道指令以降のことだとする議論もある)。

 たしかに戦時中の国家は神祇院(じんぎいん)という特別の官庁をつくり、公的文書に「八紘一宇」「皇道」「天壌無窮(てんじょうむきゅう)」などといった神道的用語をちりばめていた。だが、政府はそこに明確な信念をこめていたわけではなく、議会でそれらの言葉をまともに説明できなかったという。むしろ、こうした用語を駆使して過激な「聖戦」の教説をふりまわしたのは、マスメディアや知識人、そして仏教をはじめとする宗教人のほうだったという見方もできるのだ(國學院大學研究開発推進センター編・阪本是丸責任編集『昭和前期の神道と社会』)。

 それをふまえて私は、戦時日本の宗教空間は、国家のお墨付きを得た神道的用語を共通の素材としながら、そこにそれぞれの思惑を盛り込んだ多様な宗教思想が、不格好に折り重なることで成り立っていたと考えている(永岡崇「"聖戦"と網状の実践系」『戦争社会学研究』第3巻)。拡大レンズをあてて観察すると大小さまざまな論争・対立があるのだが、一歩引いて全体を眺めると、むしろそうした対立が「聖戦」の世界観を活性化させる効果をもたらしていたように思われる。その複雑な力学を分析することが、あの戦争の理解には不可欠なのだ。

 宗教弾圧も、こうした見通しのなかで再検証する必要があるだろう。実際、民間の右翼団体による「邪教」排撃運動にせっつかれる形で警察が動き出すというケースも多く、取締りを受けた教団にはマスメディアの攻撃と世間の悪意の目が待ち構えていた。いわば官民の連携による弾圧システムが構築されていたのだ。国家にすべての責任を負わせて済ませるのではなく、弾圧という出来事が「聖戦」を支える国家規模の宗教空間のなかでどのような意味をもっていたのかを考えなければならないのである。

 近代日本の宗教弾圧は明治初期から断続的にくりかえされてきたが、1930年代なかば以降、量的にも質的にも新たなステージに入ったといえる。共産主義運動の抑え込みにほぼ成功した特別高等警察(特高)が、右翼・国家主義運動、さらに宗教へと取締りの手を伸ばしたのである。宗教の取締りにはじめて治安維持法が適用された第二次大本事件(35年12月)を皮切りに、疑わしい教団の監視や内偵が進められた。天皇・皇族や神宮に対する不敬、国体の否定や変革の意図、反戦・反軍的言動などを理由に膨大な数の検挙者が出た。

 こうした諸事件については、取締りの原因は何だったのか、検挙された宗教者はいかにして信仰を貫いたのか、といった点に注目されることが多い(それを通じてさきほどの善悪二元論的ストーリーが形成される)。もちろんそれも大事だが、ここで考えたいのは検挙の後、法廷という場で何が語られたのか、という問題である。

 戦時中の不敬罪や治安維持法違反がらみの事件でまともな審理など行われたのか、と疑問に思われる向きもあるかもしれないが、記録や回想録を見ると意外にも興味深い議論が展開されているのだ。当時、特高は不敬罪や治安維持法違反をかなり強引に適用し、多くの宗教者を裁判所に送り込んだが、法廷でその犯罪を立証することは難しく、最終的に無罪や微罪、玉虫色の判断に落ち着くケースが少なくなかった。宗教独特の論理に裁判官が翻弄される場面もあり、議論の過程で「聖戦」なるものの本質がえぐり出されていくことにもなる。ここでは、当時の弾圧事件のなかでは比較的マイナーだが、天津教事件と曼荼羅国神不敬事件という二つの不敬事件を例に少し見てみよう。

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