東洋史と西洋史の「達人」が語る――歴史を学び直して最後に見えてくるもの
グローバル・ヒストリーは可能か
岡本 今、方法論も含めて歴史学が問い直されていると思います。西洋史は東洋史と比べて、方法論も含め一歩も二歩も進んでいます。生態環境史もそうですし、たとえば感染病に関わる歴史にもいち早く取り組んでおり、そうした動きが近年注目されているグローバル・ヒストリーの礎となっています。ではそれが今後、本当の意味でのグローバルな歴史になり得るのか。
君塚 本当にグローバル・ヒストリーであれば、大賛成ですけれどね。しかし日本にこれだけ東洋史、中国史の膨大な蓄積があるにもかかわらず、そういう蓄積をきちんと見ないで、横文字ばかりに頼っている状況はどうなのか。その点、英歴史家のパトリック・カール・オブライエンは、近世のヨーロッパと中国の経済的比較を行った著書『「大分岐論争」とは何か』(ミネルヴァ書房)で、自分が中国語を読めないのが悔しいと正直に書いており、誠実だと思います。
グローバル・ヒストリーという視点が出てくること自体は、地球的な問題が全ての国にすぐ跳ね返ってくる現代においては必然でしょう。しかしそれは別に今始まったことではありません。もちろん現代ほど直ちに影響が出るわけではなかったでしょうが、長期的に歴史を眺めたとき、そうした傾向が見出されるのは当たり前です。
岡本 世界システム論にしてもグローバル・ヒストリーにしても、西洋以外の史料についてはオブライエンの言うような状況が実情だと思います。中国史に関しては、英語のできる中国人学者の言っていることを丸ごと受け入れて、それを基に前近代中国のGDPがいかに巨大だったかという話になっている。中国の欧米コンプレックスの根深さを感じさせる主張ですが、それに世界中が迎合しているわけです。
私も米歴史家のパミラ・カイル・クロスリーの『グローバル・ヒストリーとは何か』(岩波書店)という本には感動しましたし、歴史における感染症の影響なども考えなければと思いはします。しかし、それを東アジアにどう結びつけられるのかという点は、一筋縄ではいかない。
君塚 単純な直輸入では難しいですからね。
岡本 西洋と東洋では、そもそも社会の成り立ちも異なりますし、史料の残り方も全く違います。我々が歴史の史料というとき、その扱い方は西洋から方法を学び、基本的にそれに従っています。しかしその規準では、アジアに残っている史料のほとんどが真実を伝えていないことになる。その状況で、どう研究をしたらいいかと考えながら30年過ごしてきたような気がします。
たとえば経済史であれば、統計資料とその処理の仕方も西洋史では何百年も検討されてきて、かなりの部分まで数値で追えるように組み立てられています。日本史ではそれを直輸入して、同じように研究している人がいますが、私にとっては、社会の有りようが違うはずなのに、同じように結果が出せることが不思議でしようがないのです。中国史の場合は、残っている数字そのものを信用できませんから、全く無理です。
(中央公論11月号では、この後も歴史叙述の方法論や世界史教育のあり方について詳しく論じている。)
構成:小山 晃
1965年京都府生まれ。京都大学大学院文学研究科東洋史学博士後期課程満期退学。博士(文学)。京都府立大学教授などを経て現職。専門は東洋史・近代アジア史。『悪党たちの中華帝国』『物語 江南の歴史』など著書多数。
◆君塚直隆〔きみづかなおたか〕
1967年東京都生まれ。上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程修了。博士(史学)。神奈川県立外語短期大学教授などを経て現職。専門はイギリス政治外交史、ヨーロッパ国際政治史。『エリザベス女王』『貴族とは何か』など著書多数。