分断と対立の進む今こそ読みたい、「大正デモクラシーの旗手」吉野作造のメッセージ
(『中央公論』2026年1月号より抜粋)
『中央公論』における吉野最後の寄稿は、1933年1月号の巻頭言「内外多難の新年」である。ここで吉野は、満洲事変以降の「非常時」において、日本は東洋でも世界でも「多難の苦境」を味わっており、満洲国の建国によって悪化した中国との関係が改善できるのか、国際連盟における日本の立場がどうなるのか、国内でも、「不穏な直接行動」によって「言論行動の自由」が脅かされているが、政府は秩序を維持できるのか、などと不安を述べ、「為政階級の間に指導的経綸の欠如」していると批判した。
内閣の重要政策は一貫せず、閣内の意思統一もなされておらず、「軍部」が「軍部」のことしか考えないならまだしも、「外の部面」にも「周到なる政策」を展開していけば、「ファッショ」とならざるを得ないのではないか、と吉野は懸念し、軍部に対する内閣の統制強化を訴えている。
31年9月の柳条湖事件に端を発した満洲事変で、関東軍は満蒙地域に傀儡国家を樹立することを目指し、翌年3月に満洲国を建国、反発した中国は国際連盟に提訴し、リットン調査団が派遣された。この巻頭言の翌月に国際連盟総会が開かれて、中国の統治権承認と日本軍撤退を求める報告書案が圧倒的多数で採択され、松岡洋右(ようすけ)ら日本代表団は議場から立ち去る。日本が連盟脱退を通告することになるのが、吉野が没して9日後のことだった。
事変勃発を受けた吉野は、帝国主義的進出は国際的批判を招くと主張した。国家のみが秩序形成権力を独占するのではなく、国家を超えた正義や人道を重んじる国際民主主義を唱えた吉野にとって、軍事行動という強硬手段は許しがたく、連盟における日本の地位を憂えたのも当然であった。
日本国内では、青年将校らによって32年5月15日に五・一五事件が勃発し、犬養毅首相が射殺されて、政党内閣は終焉を告げている。この日の日記に吉野は、青年将校の「心事」は憐れむべきだが、「その愚や度すべからず」(愚かで救いようがない)と書き付けた。
吉野が訴え続けてきたデモクラシーとリベラリズム、すなわち議会主義の擁護と暴力革命の警戒、そして自由の尊重が、いずれも危機を迎えていた。