張作霖への秘密裏の兵器供給
原敬内閣以降、日本政府は張作霖支援方針を採った。ただし、張作霖が中央進出せずに東三省統治に専念することを望み、中央進出を促しかねない兵器供給を認めなかった。しかし、張作霖率いる奉天派は、北京政府の主導権争いに乗り出し、22年と24年の2度にわたり、曹錕(そうこん)(直魯豫巡閲使、のち大総統)ら直隷派との内戦(奉直戦争)を繰り返した。
関東軍は、張作霖への兵器支援が必要と判断し、政府に無断で、弾薬を供給した。第一次奉直戦争の弾薬供給では、軍司令部、軍事顧問、さらに奉天総領事が協力している。駐在武官と外務省出先の領事は、反目しあっていたというイメージがあるが、必ずしもそうではない。出先同士で連携することもあった。
供給の手順としては、まず関東軍が馬賊対策の必要性を訴え、陸軍省に弾薬を送らせる。それを長春―奉天間を輸送する奉天派の貨車に潜り込ませる。そして関東軍は、弾薬を演習で消費したと陸軍省に報告して、帳面を合わせたのである。軍事顧問であった本庄繁がのち陸軍省に奉天派から弾薬の代金を受け取ったかを照会し、「未受領だが整理済」と回答を受けており、陸軍省も供給を追認したことがわかる。
一方、第二次奉直戦争の際には、出先の統制が取れていない。同戦争の時点では、陸軍中央も張作霖への弾薬供給に積極的になっていた。宇垣一成(かずしげ)陸相は、閣内で供給を提議するが、内戦不介入の方針から反対を受けた。第一次奉直戦争後の22年10月、ウラジオストクに保管されていた武器を張作霖に引き渡した事件に貴志や本庄らの関与があったと大々的に報道されたことがあった。関東軍司令部は慎重にならざるを得ず、中央からの指示なしには、供給を実行に移せずにいた。
そのような状況下に軍事顧問の松井七夫が独断で実行したのである。政府方針に反する工作を重ね、現に実行中(直隷派内のクーデター工作)でもあった陸軍中央や関東軍司令部は、松井の行動を抑える説得力を持ちようがなかったといえよう。