張作霖爆殺事件
関東軍司令部が中央のゴーサインを待っているなかで、部下が独断で行動する構図は、28年6月の張作霖爆殺事件も同様である。
事件直前の時点で、張作霖は、中華民国陸海軍大元帥(大総統に相当)として、北京政府を直接動かすようになっていたが、対立する蒋介石の北伐軍が北京に迫り、東三省に撤退せざるを得ない状況となった。
田中義一(ぎいち)内閣は、満鉄沿線の居留民を保護するため、状況によっては撤退してくる奉天軍の武装解除を行う方針を採ったが、張作霖に見切りをつけていた関東軍としては、彼を下野させるため、必ず武装解除を行うことを望んだ。関東軍は、奉天軍が満鉄沿線に至る前に錦州(きんしゅう)に出兵して武装解除を行おうとし、中央の承認を待ったが、待てど暮らせど命令は下りなかった。
そこで高級参謀の河本大作が独断で実行したのが、張作霖爆殺であった。列車で帰還してくる張作霖を狙って爆破し、張作霖の排除を力ずくで行おうとしたのだ。
河本は、責任が広く及ぶことを懸念し、協力を求める範囲を限定した。軍司令官の村岡長太郎中将は、河本の行動を知りつつ黙認していたが、参謀長の斎藤恒(ひさし)少将(天保銭第一世代)は、知らなかったとみられる。
計画に関与したのは、参謀(鉄道警備担当)の尾崎義春少佐、幕僚付の川越守二(もりじ)大尉、独立守備歩兵第2大隊中隊長の東宮鉄男(とうみやかねお)大尉、同大隊付の神田泰之助中尉、朝鮮から派遣中の工兵第20大隊付の桐原貞寿(さだとし)中尉であった。
河本は、特務機関の秦真次や軍事顧問の土肥原賢二とは意見が合わず、連携していない。それどころか、軍事顧問の儀我(ぎが)誠也少佐(天保銭第二世代)が張作霖と一緒に列車に乗っているにもかかわらず、爆破を敢行した(儀我は負傷)。
及川琢英(北海道大学大学院文学研究院共同研究員)
〔おいかわたくえい〕
1977年北海道生まれ。2009年北海道大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。10年から14年にかけて中国の東北師範大学、吉林大学で外教専家(外国人教員)として勤務の後、現職。著書に『帝国日本の大陸政策と満洲国軍』。
1977年北海道生まれ。2009年北海道大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。10年から14年にかけて中国の東北師範大学、吉林大学で外教専家(外国人教員)として勤務の後、現職。著書に『帝国日本の大陸政策と満洲国軍』。