九月三日と"中国の歴史戦"

時評2014
川島真

 二〇一四年二月、中国の全国人民代表大会常務委員会は、九月三日を「抗日戦争勝利記念日」に、十二月十三日を「南京大虐殺犠牲者国家追悼日」と定めた。これは、国内に於いて歴史認識問題を制度化する試みでもあるし、同時に九月三日のような忘れ去られる可能性のある記念日を風化させないようにする意味合いもあろう。

 日本人には九月三日という日はなじみが薄い。この日が記念日となったのは、九月二日の翌日だからである。九月二日が何の日かということは、日本の高等学校の日本史の教科書などにはしっかりと書かれているのだが、受験が終われば忘却される日付のようだ。一九四五年九月二日は、日本が東京湾に停泊している戦艦ミズーリ艦上で正式に連合国に降伏した日である。調印したのは中国を含む九ヵ国、中国の代表は国民党の国民政府から派遣された徐永昌であった。日本は中国に宣戦布告していなかったが、英米中ソから発せられたポツダム宣言を受諾し、中国に降伏したのである。その翌日の三日、国民政府の臨時首都だった重慶で抗日戦争勝利、反ファシスト戦争勝利を祝う記念式典がおこなわれた。この記念式典の実施が九月三日を抗日勝利記念日にする根拠だ。

 九月三日を記念日にしたのは、国民党の中華民国国民政府であった。実は中華民国が台湾に遷ったあとも九月三日は記念日であり続け、軍人節となった。一方、一九四九年十月一日に成立した中華人民共和国は、同年十二月二十三日の「統一全国年節和紀念日放仮辦法」によって、九月三日ではなく、八月十五日を抗日勝利日とした。だが、朝鮮戦争中の一九五一年八月になって胡喬木という人物が、九月三日のほうが抗日戦争勝利記念日として適当であるとの案を毛沢東に示し、八月十三日に「政務規定九月三日為抗日戦争勝利紀念日通告」によって九月三日と定められた。

 八月十五日よりも九月三日が適当とされたのは、実際の日本の降伏が八月十五日ではないこともあるが(八月十四日にポツダム宣言受諾、八月十五日に玉音放送)、やはりソ連との関係が重要であったようである。当時は、「向ソ一辺倒」とされたように、中国の対外政策はソ連に依存したものであった。上記の一九五一年八月十三日の「通告」は次のように言う。「毎年九月三日に、全国人民は、わが国の軍民による八年間の偉大なる抗日戦争、およびソ連軍の東北解放支援にもよる抗日戦争勝利、という光栄なる歴史を紀念する」。

 アメリカなどのVJ Day(日本への勝利記念日)は九月二日だが、ソ連やモンゴルなど社会主義圏の諸国は九月三日に記念日を設定した。中国はソ連とおなじ日に設定することで、一九四五年八月に日ソ中立条約を破棄して満洲や樺太・千島に侵攻したソ連の業績を称えたのである。実際、中国共産党は、戦後にソ連が接収した満洲を足場にして、ソ連の支援の下に国民党との国共内戦に勝利したのだった。

 二〇一五年は戦後七〇周年に当たるが、来年、中国はロシアと合同で抗日戦争勝利記念事業をおこなうことに決めており、この七月におこなわれたロシアのセルゲイ・イワノフ大統領府長官と中国の栗戦書・共産党中央弁公庁主任との会談でも確認されている。中国の全国人民代表大会が国内措置として九月三日を抗日戦争勝利記念日と定めたことは、このような対外政策ともリンクしている。

 毎年、中国では、七月七日(盧溝橋事件記念日)から九月十八日(満洲事変記念日)まで、メディアで戦争勝利/反日キャンペーンがおこなわれる。来年の七〇周年を視野に入れながら、中国から仕掛けられている"歴史戦"に、日本はいかに応じるのか、相応の考慮が求められる。
(了)

〔『中央公論』2014年9月号より〕

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