鈴木英司 日中友好の士が中国の獄中で過ごした6年

鈴木英司(元日中青年交流協会理事長)

逮捕前に7ヵ月の取り調べ

 私の拘束生活は3段階でした。まず2016年7月15日に北京の空港で連行され、「居住監視」という名の下に7ヵ月間にわたって監禁され、北京市国家安全局から取り調べを受けました。17年2月16日に正式逮捕され、その後3年9ヵ月間は拘置所での生活。そして20年11月9日にスパイ罪で懲役6年の有罪判決が確定し、未決勾留日数を差し引いて今年10月11日に刑期満了となるまでの1年11ヵ月間を監獄(刑務所)で過ごしたのです。

 なんと言っても辛かったのは、最初の居住監視でした。

 あの日は北京市内で知人と食事をした後、帰国するためタクシーで北京首都国際空港に向かいました。国際線のある第3ターミナルで降りて歩き始めると、5人の男に取り囲まれました。「おまえは鈴木か」と聞かれて「そうだ」と答えると、いきなり停めてあった白い車の中に押し込まれました。男たちは「北京市国家安全局の職員」と言うだけで、身分証の提示を求めても応じません。抗議すると「スパイ容疑で拘束を許可する」と書かれた北京市国家安全局長名の書類を見せられました。

 車内ではアイマスクで目隠しされ、携帯電話、腕時計などを取り上げられました。「日本大使館に連絡してほしい」と訴えても、「我々の仕事ではない」と聞き入れてくれません。1時間ほど走り、目隠しされたまま車から降ろされました。後でわかったことですが、北京市南部の豊台区にある市国家安全局の施設でした。エレベーターを降りると、体を何回かぐるぐると回転させられた後、部屋に入れられ、ベッドのような場所に座らされた後、ようやくアイマスクが外されました。

 中国の一般的な宿泊施設「招待所」のツインルームのような一室で、腰掛けたベッドの先にはソファが置かれ、分厚いカーテンは閉め切ったままでした。そこが502号室で、廊下の斜め向かいの504号室で取り調べを受けました。男3人と通訳の女性が私の向かいに座っており、責任者とみられる40歳くらいの恰幅の良い男が、自分のことは「先生(老師)」と呼べとだけ言い、氏名は明かしませんでした。

 502号室に戻ると、男2人がソファに座り、時々交代しながら24時間態勢で監視を続けます。私がベッドに腰掛けたまま食事するのも、寝るのも、黙って見ているのです。何が辛かったかと言えば、カーテンが閉め切られた室内では電灯以外の光が感じられないことと、まったく会話がないことでした。

 時計も取り上げられ、筆記用具もなく、テレビも見られなければ本も読めない。そんな状態の中で続く取り調べでは毎回、最後に「次回はこれについて聞く」という「宿題」が出されました。ほかにやることもないので、「どう答えるべきか」ということばかりを考えてしまう。そして、誰ともしゃべらないので、続きの取り調べで言葉をかけられると、つい余計なことまでしゃべってしまうのです。

 私は人の経歴や学歴をよく覚えている方です。もちろん自分や相手に不利になりそうな話は「覚えていない」と回答を避けますが、中国で付き合いのあった人について尋ねられると思わず、「彼はどの大学を出た」などと話してしまう。すると「おまえは記憶力が良い。過去のことを覚えていないはずはない」と追及されることもありました。

 うまいやり方だと思いました。こうして相手を極限の状態に追い込んで、思うままに供述させていくというノウハウなのでしょう。

 居住監視が始まってから約1ヵ月後、どうしても太陽が見たくなって、「先生」に頼み込みました。その翌日、取り調べの際に廊下の窓から約1メートル離れたところに椅子が置かれ、座るよう促されました。窓越しに太陽が見えました。もう少し窓に近寄りたいと訴えましたが、それは許されませんでした。15分ほどが過ぎると、「終わりだ」と告げられました。居住監視下で太陽を目にしたのは、この1回きりだったのです。


 中国では刑事訴訟法に基づき、正式な逮捕前などに刑事施設以外で拘束する「居住監視」と呼ばれる措置がある。拘束期間の上限は6ヵ月とされるが、延長されるケースもある。自白強要や拷問の温床とも指摘されている。


 居住監視下では弁護人を依頼することも許されませんでした。日本大使館に連絡を取るよう求め続け、拘束から5日後にようやく認められました。大使館員との「領事面会」は施設内の広い応接室のような場所で行われ、取調室にいた男たちがおり、ビデオカメラで撮影もされていた。「ここで面会するんですか」と尋ねると、「これが中国のやり方です」と大使館員は言う。話題が容疑内容に及ぶと、中国側の日本語のわかる男が「先生」に報告する。「そういう話はするな」と妨害され、「あと2回話題にしたら、今日の面会は中止にする」と警告されました。

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