テリー伊藤 僕たちはどう死ぬのか
(『中央公論』2023年4月号より抜粋)
- 学生運動ではなく、学内改革に参加
- 日大闘争の先へ行く勇気がなかった
- 矢沢永吉の価値観にやられる
- コンプライアンスが保身に使われている
学生運動ではなく、学内改革に参加
我々の若い頃といえば学生運動が活発だったけど、当時の僕にそういう政治意識は全然なかったです。
日本大学に進学したんだけど、あの頃は古田重二良(じゅうじろう)という人が会頭でトップでした。最近でも田中英壽(ひでとし)っていう人が"日大のドン"なんて言われていましたけど、ちょっと似ている。当時の古田体制では、裏口入学や脱税などの問題が噴出していました。
実家が東京だったから僕はそこまで大変な思いはしなかったけど、地方から出てきた学生は違った。普通の会社員の親とかが、授業料の高い日大に頑張って子どもを送り出しているんです。当然お金がないから、彼らの住んでいるアパートの多くは四畳半でしたよ。それくらい四苦八苦している連中がいっぱいいた。
だから、「うちの親が稼いだお金で私腹を肥やしやがって、ふざけんな」って、みんな憤りを感じたわけです。それはものすごく共感できたし、大学に対しても憤りを感じていました。
あるとき、教室に入ったら「今日の授業は休講です」と言われて。毎日、デモが行われていたからでしょうね。「へえ、そうなんだ」と思って、ふらっと校庭に行ったんです。すると、そこで学生たちの集会が始まった。「面白そうだな」と思い、その集会に出てみました。
そしたら、いきなり屋上から運動部の連中が石を落としてきたんです。下にいる僕たちは「お前ら、危ねえじゃねえか!」「誰か110番してこい! とんでもない連中がいるぞ!!」と騒然となった。で、しばらくしたら警察が来たので、僕たちは「お巡りさん、上から石を投げてる! 捕まえてください!!」って言ったんです。なのに、なぜか通報した僕たちのほうが構内から排除されたんですよ。
そのときに初めて人生の矛盾を感じましたね。上から石をぶん投げた連中が排除されなくて、下で不正に怒っている僕たちのほうが構内から追い出されたんだもの。「これ、どういうことよ!?」って。それが僕にとってはターニングポイントだった。利権に浸かっている連中は安穏としているばかりか、僕たちの側を運動部を使って排除しにかかったんだから、「これ、違うだろう!」って。
だから、自分が参加したのは学内を改革する活動です。それって右とか左のイデオロギーじゃない。僕、女の子も大好きだし、学生運動って言葉にもそんなにピンとこなかった。日大の周りではデモに参加したけど、「悪い。俺、この3時間は学校に反対するけど、その後は夕方からデートだし、明日は海に行くから無理」なんて平気で口にしてた。そこまでのめり込んでいる感じじゃなかったです。
もちろん、世を憂えている重たい奴もいたけど、僕は洋服も好きだったし、ナンパもしていて、特に憂えてもいなかったですよ。自分みたいにカジュアルに活動に参加していた人は多かったと思います。あの頃の女の子たちも、「ヘルメット、かっこいいじゃん」って、カジュアルに言ってたし。
羽田事件(1967年10月8日、当時の佐藤栄作首相の東南アジア訪問を阻止しようと、学生が羽田空港周辺で機動隊と衝突した)とか、新宿騒乱事件(1968年10月21日、国際反戦デーに合わせて学生が新宿駅を占拠し、破壊行為に及んだ)を見て、「やりすぎなんじゃないの?」って感じていました。あんなことやったって、大衆は支持しませんよ。「これは違うよね」って思っていた人は、多かった気がします。