『失敗の本質』共著者が見た野中郁次郎

(『中央公論』2025年4月号より抜粋)
1月25日、野中郁次郎先生が逝去された。大好きなベートーベンのシンフォニーを聞きながら安らかに息を引き取られたという。経営学者として初めて学士院会員に選ばれた野中先生のご逝去は、経営学界にとって、まさに巨星墜(お)つ、というべきだろう。ただし、私は経営学とは縁遠いところにいる。野中先生が偉大な経営学者であることについて語る資格はない。この一文は、一時期、防衛大学校(以下、防大)教官として同僚であったことと、同時期に先生が始めた研究会以来、長い間そのメンバーとしてお付き合いいただいたことの、思い出を述べるだけにすぎない。
「猪木サンにだまされた」
先生が防大に着任されたのは1979年、私はその3年ほど前に教官に採用されていた。私の場合は初めての就職だったので、防大のポストはこの上なく有難かったが、南山大学ですでに大学人としての道を歩まれていた先生にとって、防大教官となることには、かなりの悩みと戸惑いがあったと思われる。自衛隊・防衛庁に対する偏見がまだ相当強い時代であった。軍事組織の研究についての協力を、知人を介して防大校長の猪木正道氏に求めたところ、猪木氏は、先生が防大教官となることを条件として全面的協力を約したのだという。ただ、先生の着任前に猪木氏は防大校長を辞したので、先生は「猪木サンにだまされた」と冗談まじりに笑いながら語っていた。
猪木氏が防大に創設した初めての人文・社会科学専攻のうち、先生は管理学専攻の教官、私は国際関係論専攻の教官で、同じ社会科学教室に属していながら、しばらくは親しく話をする機会がなかった。先生を中心とする研究会に誘ってくれたのは、管理学教官の鎌田伸一氏だが、この研究会の発足について、だいぶ後になってから聞いた逸話がある。
防大には、防衛学教室という軍事に関わる教育・研究を担当する部門があるのだが、そこに着任した自衛官教官の杉之尾孝生(すぎのおよしお)氏が、自分の防大生時代にはなかった文系の専攻課程の中に管理学という耳にしたことがない名称があったので、そこの専攻学生に、管理学とはいったい何かと尋ねた。すると学生は、経営学と同じようなものだそうです、と答えたので、杉之尾氏は、「軍人」に金儲けの学問を教えるとはいったい何事か、と憤慨したという。そのことを学生から聞いた野中先生は、杉之尾氏を研究室に招いて、経営学・組織論の何たるかを懇々と説明し、その説明に感服した杉之尾氏は、それならば組織論のアプローチを戦史研究に適用することはできないだろうか、と野中先生に持ち掛け、これが『失敗の本質』の刊行につながる研究会の発端になった。ちょっと出来すぎた話だが、これに近いやり取りはあったのだろう。
(『中央公論』4月号では、この後も、共同研究でのエピソード、続編『戦略の本質』刊行の経緯、野中理論の魅力などを綴っている。)
1948年宮城県生まれ。京都大学法学部卒業、同大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。博士(法学)。防衛大学校教授、国際日本文化研究センター教授、帝京大学教授などを歴任。主な著書に、『逆説の軍隊』『自壊の病理』『昭和の指導者』、共著に『失敗の本質』などがある。
野中郁次郎〔のなかいくじろう〕
1935年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。富士電機製造勤務ののち、カリフォルニア大学経営大学院(バークレー校)にてPh.D.取得。南山大学教授、防衛大学校教授、北陸先端科学技術大学院大学教授、一橋大学教授を歴任。一橋大学名誉教授。『知識創造の経営』『失敗の本質』『アメリカ海兵隊』『野性の経営』など著書多数。1月25日逝去。享年89。