前のめりの専門家とたじろぐ政治

牧原出(東京大学先端科学技術研究センター教授)

 (『中央公論』2020年8月号掲載記事より後半部分を抜粋)

分裂の中、たじろぐ政治

「前のめり」の感染症専門家と、これを取り囲むように、多様な分野の専門家が参戦し、大立ち回りとなった新型コロナ対策、という状況は、日本だけに限らない。当初集団免疫を唱えてごうごうたる非難の結果、方針を転換したイギリスや、集団免疫の方針を続けた結果、周辺諸国と比べて死亡率が高くなったスウェーデンはもちろんのこと、比較的感染の抑え込みに成功したドイツですら、専門家への不満は高まっている模様である。どの国も自国の政策を守るために異なる政策をとる他国を非難する傾向にあり、そうしたもろもろの非難が、各国の国内での不満に火をつけている面もあるようにすら見える。

 日本の場合は、元来専門家の登用に消極的であった第二次以降の安倍内閣の欠点が赤裸々となった。首相の記者会見でのパフォーマンスの低さは、国会審議で自分の言葉と言えばヤジを言うにとどまり、弁舌に磨きをかけてこなかったこれまでの実績が素直に反映されたに過ぎない。

 さらに、官僚への人事権をテコに各省を統制していた菅義偉官房長官を一連の決定から事実上排除し、西村経済再生担当大臣を新型コロナ担当大臣にしたことで、政府全体として各省へのコントロールは低下した。内閣府特命担当大臣には、各省大臣と比べて圧倒的に少ないスタッフしかおらず、その発言権は過去の例を見ても、そうは高くはならないからである。

 しかも、当初アドバイザリーボードを設けた加藤厚労大臣と政府内の医療専門家である医系技官の役割がかすんでいる。加藤大臣は、本来ならば尾身会長に代わって、自ら国民に対して説明するにふさわしい立場であるが、どうみても影が薄い。また専門家会議の事務局は、実質、厚労省の医系技官たちがかなりの程度コントロールしているし、末端の保健所の強化や特効薬・ワクチンの早期承認などは、その重要な職務である。にもかかわらず、西村大臣と尾身会長が前面に出れば出るほど、後景に退いた厚労省の役割は見えにくくなっている。

 こうして、「安倍一強」のもと、強いチーム組織として安倍首相を支えた政権は、分裂の様相を強めている。誰もが責任を担いきれず、厳しい事態にたじろいでいる。首相の言葉が弱々しく聞こえたり、「まさに」、「歯を食いしばって」、「守り抜く」といった決まり文句が耳障りなほど繰り返されたりするのは、首相を支えるスタッフがやせ細り、政策アイディアの出所が払底しているからである。

 その帰結の一つは、官僚が、森友・加計学園問題のようには「忖度」しなくなることである。黒川検事長辞任の際には、処分は訓告にとどまったが、法務省側はより重い戒告を主張し、官邸が訓告にとどめたとのリークがあった。出所はどうみても法務省である。また安倍首相が感染抑え込みの秘策として記者会見でも認可を前倒しにすると強調したアビガンは厚労省が後ろ向きのままである。承認申請する製薬会社は登場していない。もはや官邸が無理筋な方針を各省に投げかけても、そのまま各省が協力するといった状況ではなくなっている。

現場発の対策が出発点

 今後第二波の到来が予想される中、これまでのスタイルでは、到底対応できないであろう。感染の広がりが収まりつつある現在、政権の最大の課題は、専門家とどのようにこれからの政策形成で協力できるかである。

 一つ目は、感染症専門家についてである。政治は状況に対してたじろぎ、感染症専門家は「前のめり」であった。それを改めて、政治の責任範囲を明らかにし、専門家は分析と評価に徹するよう役割の分担が必要である。六月二十四日、西村大臣は専門家会議を「廃止」すると述べたが、今後どのような体制がとられるのかは注視すべきである。

 二つ目は、感染拡大が落ち着いた現在、一層必要なのは、感染症対策とそのほかの専門分野との調整である。経済との調整が第一義的には重要であり、すでに感染症専門家の要望に応える形で諮問委員会には四名の経済学者が委員となっている。

 とは言っても感染症専門家と比べて経済関係の委員の数はきわめて少ない。また経済の専門家の意見と、感染症専門家の意見とは、本質的に接点が薄く、一本化は難しい。異なる複数の意見を一つにまとめることこそ政治の役割であり、厚労大臣と経済再生担当大臣とがそれぞれを助言する専門家の意見を受けて議論して、決定すべきものである。しかし、西村大臣と加藤厚労大臣とが安倍首相を前にそうした大臣政治を繰り広げるようなスタイルを、現政権はとってこなかった。すべてが首相周辺で集中決済することで、これまでの七年間を乗り切ってきたのである。

 しかも、教育が典型だが、授業方法、学校生活、入試実施方法など、問題が山積である。地域事情も加わるとすれば、感染者が発生しやすい都市部と、都市部から持ち込まれなければ従来通りの生活を送れるであろう地方部では、それぞれ対応が異なってくるはずである。日常生活全般について、「新しい生活様式」という専門家会議が打ち出した三密回避のためのルールを、それぞれの場面でどう活かすかが問われている。

 まず内閣の中での責任分担をもう一度考え直すべきであろう。首相と側近による政策決定はもはや機能しない。まずは官房長官の政府部内全体を調整する役割を再確認する必要がある。チーム組織としての政権の再建はやはり必要であろう。

 そして、厚労大臣・文部科学大臣など大臣の役割をもう一度見直すべきである。内閣の基本原則は、各省の所管に全責任を持つ大臣が主体的に行動することである。現政権は、麻生財務相と、安倍首相側近の数名の大臣以外は、ほとんど機能せず、官邸が処理してきた。それが可能だったのは、政権が、時期を区切って安保法制、トランプ大統領対策、地方創生、一億総活躍など、特定の政策に関心を集中し、政策革新を図ってきたからである。しかし、新型コロナ対策では、数年かけて全大臣が所管を見直し、慎重かつ果断に問題を処理する必要がある。「官邸案件」に特化した政策形成では到底対処できないのである。この点は、新型コロナ対策が終息しないうちに政権が代わったときにこそ、さらに重要になるであろう。

 三つ目として、問題が長引き、多岐にわたるとすれば、もう一度それぞれの専門家がその枠を超えて地道に討議を繰り返すことがどうしても必要である。これまでは感染者激増と医療崩壊を恐れるあまり、識者の関心が国の中枢での決定に集中しすぎていたのではないだろうか。むしろ、個々の現場での地道な対処策について意見交換を進めるならば、建設的な討議が可能になるであろう。いくつもの手立てで日常生活の質を大きく落とさないような「多重防御」のしかけを仕込んでおけば、突然の感染爆発やロックダウンを防ぐこともできるであろう。

 最後は政治が責任をとることが納得され、前向きにこれまでの施策を振り返り、アフターコロナの可能性を探る。そういう体制に向けて、政治も、もろもろの分野の専門家も、そして市民も腰を上げるときである。

 

牧原出(東京大学先端科学技術研究センター教授)
〔まきはらいづる〕1967年愛知県生まれ。東京大学法学部卒業。博士(学術)。東北大学法学部助教授、同大学大学院法学研究科教授等を経て現職。専門は政治学・行政学。著書に『内閣政治と「大蔵省支配」』『権力移行』『「安倍一強」の謎』『崩れる政治を立て直す』など。
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