菅義偉・官房長官「コロナ危機の不備に内閣はどう動いたか?」
省庁縦割りの壁
竹中》今日は新型コロナウイルス感染症(以下、コロナ)の対策に関して、政府と行政の対応について伺いたいと思います。まずは内閣において、菅官房長官と加藤勝信厚生労働大臣、西村康稔コロナ対策大臣はどのように役割分担したのでしょうか。
菅》基本的に私が内閣の危機管理全体の責任者です。コロナは感染症ですから、所管は当然、加藤厚労大臣になります。しかし、あまりに業務が広範で過重なので、新型インフルエンザ等対策特別措置法の担当大臣として西村さんに就いてもらいました。私の役割をわかりやすく言えば、縦割りの行政による不備、穴を調整する。省庁をまたぐ調整は、和泉洋人総理大臣補佐官にもサポートしてもらっています。
竹中》政治評論家の田㟢史郎さんが第二次安倍政権になって、総理、官房長官、副長官、総理秘書官が定期的に会うようになったと著書で記されています。この会合は続いていますか。
菅》毎日行っています。総理秘書官として出席するのは今井尚哉秘書官です。いつも私は、総理に一日二回はお会いして報告していますから、特別なことには感じませんけれども。
竹中》さて、コロナ危機への対応を今一度ふりかえりたいのですが、まずダイヤモンド・プリンセス号(DP号)の対応について教えてください。検疫があるので、厚労省が最初に動いたのでしょうか。
菅》確かに検疫は厚労省の担当ですが、多くの役所が一体となって対応する必要があり、これは私が主導しました。
日本で最初のコロナ感染者が確認されたのは一月十五日。中国・武漢からの邦人帰還の第一便到着が一月二十九日。そしてDP号の横浜入港が二月三日夜です。翌四日に、検査結果が最初に出た乗客三一人のうち、一〇人が陽性だったと連絡があった。これは大変なことになると思いました。そこで厚労大臣、国土交通大臣、内閣危機管理監に加えて関係省庁の次官や局長を深夜十二時に招集して、対応を検討しました。しかし乗客が約二七〇〇名、乗員約一〇〇〇名でとても船から降ろして宿泊させることはできない。そこで船から降ろさずに対応することを決めました。乗客の約半数が七十歳以上である中で、PCR検査は症状のある人から、また高齢者から順に行うことにしました。その後、搬送などの支援が必要になるので自衛隊、また船の通信体制が弱いので総務省も呼んで対応しました。オペレーションが軌道に乗るまでの一週間は大変でした。
竹中》次に、深刻なマスク不足になり、四月下旬に国が医療機関に直送するシステムを作っています。これも菅長官の指示でしょうか。
菅》はい。一月末から全国でマスクが不足していると言われていたので、厚労省に「マスクは大丈夫か?」と聞きました。すると「大丈夫」だと言う。確かに二月後半段階で、日本でマスクを作っているメーカーは二四時間態勢での増産に入っていました。しかし日本でまかなえるのは必要な量の二割、八割は中国製に頼っていました。とても足りません。だから私の指示で厚労省にマスクチームを作り、経産省の職員を一〇名入れて、シャープなど日頃はマスクを作っていない企業にも補助金を出して生産の協力を要請しました。次に総務省です。私は横浜市議会議員から議員生活を始めているので、地方自治体がマスクを備蓄しているのをよく知っています。もちろん厚労省も各自治体にマスクを出すよう促したのですが、自治体は保健福祉部局しか厚労省の言うことを聞かない。そこで......
(以下略)
〔『中央公論』2020年10月号より改題して抜粋〕
1948年秋田県生まれ。高校卒業後上京し就職。法政大学法学部卒業。75年に代議士秘書になり、87年に横浜市議会議員となり2期務める。96年の衆議院議員選挙で初当選し、現在8期。2006年、第一次安倍政権で総務大臣を務め、12年、第二次安倍政権から内閣官房長官を務める。
◆竹中治堅〔たけなかはるかた〕
1971年生まれ。93年東京大学法学部卒業、大蔵省入省。98年スタンフォード大学修了、Ph.D.(政治学)。99年より政策研究大学院大学助教授。2010年より現職。