まだまだ続く政権移行期

時評2011
牧原 出(政治学者)

 菅直人内閣が発足して半年が経過した。参議院選挙の敗北以後、首相の影が薄く、尖閣諸島問題では対中外交で失点を重ね、国会でも閣僚の失言が続く。国民から呆れられ、いよいよ支持率も危険水域に達したというのが、新聞記事の筋書きである。

が、安倍晋三内閣以後の自民党内閣も、充分に政権の基礎を固められないまま、一年内外で崩壊したのではなかっただろうか。そろそろ小泉純一郎内閣以後をまとめて振り返るときであろう。

 その際に注意したいのは、政権移行の過程である。アメリカでは大統領選挙後、新大統領が就任するまで政権移行チームを組織し、大統領移行法に基づいた公的助成を受け、政策・人事・予算などで円滑に旧政権からの移行を図る慣行がある。イギリスでは、総選挙前に野党幹部が一部の官僚と懇談をすることが認められるダグラス=ヒューム・ルールズがある。

 いずれも、そのときどきの状況に応じて改革が図られている。大統領移行法は随時改正され、助成が拡充している。ダグラス=ヒューム・ルールズは、一九九二年に野党幹部と官僚との接触期間を延長し、現在でも改革構想が登場している。二〇〇八年に設立されたシンクタンクInstitute for Governmentは、野党幹部も官僚も相当数のチームで懇談を進め、野党側は優先順位をつけた具体的工程表を提示すべきこと、新政権は十分時間をおいて新しい組織体制を構築すべきこと、政治家も官僚も危機管理に万全を尽くすよう準備することを提言しているのである。

 他方、日本では、自民党政権が手探りで政権移行を進めていた。一九五〇年代の石橋湛山から岸信介への首相の交代、一九六〇年代の池田勇人から佐藤栄作への交代は、いずれも閣僚の留任によって政策的には円滑な移行を行った。派閥対立が激しかった一九七〇年代後半から一九八〇年代前半には、長老会・顧問会を最高顧問会議に再編して、総裁選での激しい対立を、派閥横断的な長老政治家たちによって調停しようと試みた。そして一九八〇年代後半からは、竹下登が政権移行に細心の注意を払ったのである。

 では、二〇〇〇年の竹下没後に何が起こったのだろうか。まず、小泉内閣は、官房長官・官房副長官を留任させて、政権の円滑な移行を図った。他方で、橋本行革の結果として発足したばかりの新しい省庁体制を活用し、企画権限を備えた内閣官房に各省の官僚を徐々に集め、官邸主導を実現した。並行して、経済財政諮問会議を司令塔に構造改革を推進したのである。

 だが、小泉以後の政権は、小泉内閣のような強い官邸を作ろうとして、前政権からの円滑な移行よりは、人事の抜本的刷新を図った。その結果、官邸の作法を知らない新メンバーが次々に失敗を重ねて、失速していった。

 しかも、安倍内閣以後の政権は、小泉が一顧だにしなかった公務員制度改革を看板に掲げた。これは、省庁再編の次は公務員制度が改革課題だと見た橋本龍太郎首相の構想を受け継ぐという意味では、円滑な政権移行のように見えた。だが、ルーティンの政策形成でさえ、相当の負担であるのに、人事の内閣一元管理を目的とする改革は到底実行できるものではなかった。事務次官会議の廃止などの官邸主導、政務三役による各省の掌握、天下りの抜本規制を進めようとした鳩山由紀夫内閣は、こうした橋本行革以来の改革課題を継承し、挫折した。小泉内閣の影にある橋本行革の呪縛こそ、安倍内閣後の政権が短期で崩壊した原因というべきだろう。

 思えば、橋本行革は自民党長期政権こそが背景であった。政権交代後の新政権に最低限必要なことは、新政策のために大臣集団の政治力を強化し、円滑な政権移行のために官僚の能動的な協力を確保することである。官邸の役割は、この政権移行過程を制御することであろう。政権交代と同時に政権移行を工夫すべき時代に日本も入ったのである。

 菅内閣は、一度は国家戦略室を縮小しようとし、九月の改造で副大臣・大臣政務官に比較的省務に通じた政治家をあて、「基本方針」で官僚と緊密な意思疎通を行うよう指示した。それは、橋本行革の路線とは一線を画したようにも見えるが、いまだ政権移行の途上で混乱しているともいいうる。政権は長い移行期をひとまず終えるのか、あるいは次の衆議院解散まで混乱し続けるのか。その岐路は、来年度予算を着実に編成できるかどうかにあるだろう。

(了)

〔『中央公論』2011年1月号より〕

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