歴史的「円ドル」芝居の幕引きを
我々は今、壮大な歴史ドラマの最終場面に近づきつつある。その思いを深くする日々だ。このドラマの節目節目を列記して行けば、ニクソン・ショック(一九七一年)、プラザ合意(一九八五年)、ブラック・マンデー(一九八七年)、アジア通貨危機(一九九七年)、そしてリーマン・ショック(二〇〇八年)だ。これらの出来事を回転軸とする歴史ドラマの主人公は誰か。
主人公は実は双子だ。「円ドル」という名の切っても切れない仲の双子だ。両者は双子であると同時に、弥次郎兵衛関係にある。こちらが上がればあちらが下がる。あちらが上げればこちらが下がる。どちらかが上がり過ぎても下がり過ぎても、両方が倒れる。所詮は一蓮托生だ。
だからこそ、両者の間に絶妙なバランスを見出さなければいけない。その黄金の均衡点を発見するための探索の旅。それが、ニクソン・ショックを出発点とするここまでのドラマのプロセスだったといっていいだろう。
端的にいって、もっと早くここに、たどりついているべきだった。このところの急速な円高に対して、日本国内で上がる悲鳴の切実さはよく分かる。だが、今の流れは実をいえば円高ではない。ドル高修正だ。長年にわたるドルの過大評価が、ようやく本格的に修正されつつあるということだ。その限りにおいて、八〇円割れ、七〇円割れを目指して進む円高・ドル安の動きは歴史の必然である。だからといって、それに伴う日本の産業・企業そして雇用の痛みの度合いが低下するわけではない。その痛みには真剣に向き合っていかなければならない。
だが、歴史の必然を押し戻すためにばかりエネルギーを費やすのは徒労だ。分不相応に高過ぎる通貨を、いくら元の位置に押し戻しても、やがてはまたズリ落ちてしまう。自力では立っていられない骨抜き人形をいつまでも支えているのでは、支える方がやがて精根尽きる。
手をこまねいて、進むがままに円高を放置していろといっているのではない。たとえドラマの結末は決まっていても、そこにたどり着く筋道の描き方は色々ある。性急過ぎる決着はカオスをもたらす。さりとて、あまり持って回ったシナリオにすると芝居がだれる。大団円に向かって軽妙かつ周到な筋書きをいかに描くか。ここはシナリオ・ライターたちが鳩首協議してしかるべき場面だ。
G20でもG7でもG8でもいい。「円ドル」二兄弟が呼びかけて、このドラマをどう上手に終わらせるかというテーマについて、知恵の出し合いの場を持てばいい。そこでの議論が納得性の高いものとなれば、投資家たちは落ち着きを取り戻し、投機筋は無茶な賭けに出にくくなるだろう。「第二プラザ合意」の必要性なども、これまで折に触れて主張されてきた。今こそ、プラザ合意を超える合意が求められる場面だ。
プラザ合意が追求して実現できなかった「秩序あるドル安」をグローバル時代の知恵はどう実現するのか。今、世界の政策責任者たちが目を向けるべきはそこなのだと思う。
さもないと、地球経済は二つの戦争に突入していくことになりそうだ。一に為替戦争、二に金利戦争である。
(続きは本誌でお読み下さい)
〔『中央公論』2010年10月号より〕