前原外相の訪露と陰徳
最悪となった日露関係
日露関係は東西冷戦後、最悪の状態になっている。直接のきっかけとなったのが二月七日、「北方領土の日」に東京都内で行われた菅直人首相の発言だ。日露関係の分水嶺となった歴史的発言なので、全文を正確に引用しておく。
〈北方領土の日である本日「平成二十三年北方領土返還要求全国大会」が開催されるに当たり、一言ごあいさつを申し上げます。
本日二月七日は、一八五五年に日露の間の国境を択捉島と得撫島との間に定めた日魯通好条約が調印された日で、昭和五十六年一月の閣議了解により「北方領土の日」とされました。
本日お集まりの元島民の皆様、北方領土返還要求運動関係者の皆様には、日頃から北方領土返還を実現させるべく、熱心に取り組んでいただき、政府として大変心強く感じております。その並々ならぬ御努力に心から敬意を表したい、このように思います。
北方領土問題は日本外交にとって極めて重要な課題であります。昨年十一月のメドヴェージェフ・ロシア大統領の北方領土国後島訪問は、許し難い暴挙であり、その直後のAPEC首脳会談の際に行われた私とメドヴェージェフ・ロシア大統領との会談においても強く抗議をいたしました。そしてその席で改めてメドヴェージェフ大統領との間で領土問題解決のために両首脳が中心となった協議をさらに継続しようと、こういうことを確認をいたしました。
同時に日露間における経済協力についても更に協議を続けようと、こういうことも併せて確認をいたしました。
私としては、これまで両国の間の諸合意、諸文書を基礎に、北方四島の帰属の問題を最終的に解決して平和条約を締結するという基本方針に従い、引き続き、強い意思を持ってロシアとの交渉を粘り強く進めていく考えであります。
また、北方領土問題は国民全体の問題であり、あらゆる情報、あらゆる知恵を集め、それをもとに問題解決に当たっていかなくてはなりません。
北方領土問題が未解決のまま、既に六六年が経過しようといたしております。元島民の皆様方、今日も多く御出席をしておられますけれども御高齢となられており、何としても、皆様がお元気なうちに、問題の解決を図りたい。改めて強く決意をいたしたところであります。
今月には前原外務大臣が訪ロいたします。皆様方の強い御支援をいただきながら、ロシアとの領土問題の解決に向け積極的に取り組んでまいります。
北方領土返還要求運動が全国的な運動として、今後さらに一層強力に推進され、そして政府としてのロシアとの交渉の大きな後押しの力をいただきますよう心からお願いを申し上げまして、私のあいさつとさせていただきます。〉
特に強い政治的イニシアティブが示されているわけではない官僚が作成したあいさつ文のように見える。菅首相も文書を見ながらあいさつをしていた。菅首相はすらすらと文書を読んでいたが、「昨年十一月のメドヴェージェフ・ロシア大統領の北方領土国後島訪問は」と述べた後、一瞬口ごもり、「許し難い暴挙であり......」と続けた。それを聞いた瞬間、筆者は「外務官僚ならばこういう刺激的な言葉は入れない。恐らく、内閣府の官僚があいさつ文を作成したのだろう。それだから、菅首相は『こんなことを言って大丈夫か』と躊躇したのだ。なぜ外務官僚はあいさつ文を事前にチェックして『やめた方がいい』と進言しなかったのだろうか。ロシアが反応して面倒なことになる」と思った。
激しく反応したロシア
事実、ロシアは激しく反応した。ロシア政府の意向を読み解く場合に重要なのが「ロシアの声」(旧モスクワ放送)の日本語放送である。国営放送なので、ロシア政府のシグナルの機能を果たしている。しかも放送内容を日本語版HP(http://japanese.ruvr.ru)に残すので、リアルタイムで放送を聞かなくても情報を把握することができる。ロシアはこの放送を通じて日本と情報のキャッチボールをしようとしている。しかし、日本の外務官僚がぼんやりしているせいか、球を投げ返さないのでキャッチボールが成立していない。二月八日付「ロシアの声」日本語版HPにロシア政府の意向を端的に示す〈「北方領土の日」の過激な行動・発言にロシアは憤りを禁じえない〉と題するアレクセイ・チェルニチェンコ署名の論評が掲載された。
〈7日は、日本では所謂「北方領土」の日だったが、今年は特に過激な雰囲気で、「領土返還」を求めるデモ参加者らは、ロシア国旗を侮辱した。又日本政府の対応も、やはり過激で、菅首相などはメドヴェージェフ大統領の南クリール訪問について「許しがたい暴挙」とまで呼んだ。
こうした行動や発言に対するロシア側の反応は、当然厳しいものとなり、ラヴロフ外相はTVで次のように述べた―
「菅首相の発言は、明らかに外交的なものではない。おそらく日本指導部は、(東京のロシア大使館前で)絶対に受け入れられない形の行動を示した非政府組織に遅れを取るまいと決めたのだろう。」
また菅首相の発言についてロシア科学アカデミー極東研究所のヴィクトル・パヴリャテンコ主任研究員は、次のようにコメントしている―
「何よりも悲しく残念なのは、首相が一国の長として持つべき初歩的な外交的技量を持っておられないことだ。つい最近まで政権の座にあった自由民主党の指導者達は、そうした抗議をするためにもっと用意ができていた。日本は、前の指導部が持っていたようなロシアとの対話におけるテンポと立場を失ってしまった。それゆえ、現指導部にとって唯一の突破口は、強硬な態度を示すことだったのだろう。まして、国内政治上の諸問題があるからなおさらだ。今、内閣の足場は、かなりぐらついており、野党は国会解散を求め、至る所で『菅内閣はいつまで持つか』といった予測が囁かれている。」
今回、デモ隊が大使館前でしたロシア国旗を引きずるといった行為も、ロシアでは大きなショックを与えた。これについて、極東研究所のセルゲイ・ルズャーニン副所長は、以下のように述べた―
「大使館前でのああした行為は、一部の過激な人達による狼藉として冷たく笑って済ませるレベルを越えている。日本政府は、ああした事が起こるだろうという事について、間接的に、あるいは恐らく直接的に、よく分かっていただろう。反ロシア・ヒステリーを煽る日本の過激派グループに対する予算を日本政府は増やすつもりだとのデータもある。あのような行為については、残念としか言いようがなく、憤りを感じる。」
なおプリホチコ大統領補佐官は「クリールの島々はロシアの主権下にある我が領土であり、この問題が見直されることはあり得ない。ロシア大統領は、国内のあちこちを訪問し、国民にとって焦眉の課題解決にあたっている。その事について、何人の許しも得る必要など少しもない」と言明している。〉
菅政権に対する支持率は低い。そこで、菅首相は反露ナショナリズムを煽ることで権力基盤の強化を図ろうとしている。特に「北方領土の日」の抗議行動で、東京のロシア大使館前でロシア国旗を引きずり侮辱的行動をとった右翼団体を意識して、それよりもより激しい対応をとる必要があると感じ、菅首相は「許し難い暴挙」という発言をしたというのがロシア側の解釈だ。
ラブロフ外相がテレビで「おそらく日本指導部は、(東京のロシア大使館前で)絶対に受け入れられない形の行動を示した非政府組織に遅れを取るまいと決めたのだろう」と述べたことが重要だ。菅首相の「許し難い暴挙」発言をどう読み解くかについて、東京のロシア大使館、さらにSVR(対外諜報庁)ステーションは、当然、モスクワに秘密公電で報告している。それを踏まえて、ラブロフ外相は、菅首相がナショナリズム・カードを切ったという見方を示したのだ。
われわれ日本人から見れば、ラブロフ外相の「菅首相が右翼の行動を意識し、過激な発言をした」という見方(これがロシア国家の公式見解でもある)は、荒唐無稽な難癖のように映る。しかし、菅首相の深層心理を分析すると、ロシアの見方は事柄の本質を捉えているように思える。
「許し難い暴挙」は菅首相のアドリブ
既に述べたように、筆者は当初、菅首相の「許し難い暴挙」という発言が官僚の作文だと考えた。そこで菅演説の直後に、親しくする政治部記者たちに「どういう経緯で『許し難い暴挙』という言葉が入ったのか。外務省はチェックしなかったのか。チェックした上で意図的にこの言葉を残したとするならば、外務省は日露交渉に与える影響について、どう計算していたのか」と尋ねた。しばらくして、記者たちから「官僚が用意した原稿に『許し難い暴挙』という言葉は入っていませんでした。菅さんのアドリブです」という連絡があった。二月十一日付共同通信はこう報じた。
〈「北方領土問題は日本外交にとって極めて重要な課題だ」。首相は用意したあいさつ文をよどみなく読み上げていたが、大統領の国後島訪問に触れる直前に一瞬言葉に詰まった後、一気に「許し難い暴挙だ」と踏み込んだ。
内閣府が用意したあいさつ文にはない文言で「完全な首相のアドリブ」(政府筋)。菅首相が壇上に立つ直前、発言した返還運動関係者らが大統領の行動を「暴挙」と非難し、怒りをあらわにした。首相はそのフレーズを「借用」してしまったようだ。
民主党議員は顔をしかめた。「暴挙の言葉は昨年の大統領訪問直後に使うべきだった。11月の首脳会談でにこやかに握手しながら、関係修復を目指すべき今になって相手を刺激するなんて外交センスゼロだ」〉
北方領土返還運動関係者たちを意識して、菅首相は政治主導で「許し難い暴挙」というナショナリズム・カードを切ったのである。駐日ロシア大使館前のロシア国旗侮辱事件が契機になったというロシア側の事実認定は間違いだが、ポピュリズム的思惑で菅首相が「非政府組織に遅れを取るまいと決めた」という分析は正しいのである。
ロシアは、菅首相の「許し難い暴挙」という言葉尻を捉えて、日本を追い込むことができると計算した。恐らくその根拠は以下の二つだ。
ロシアはインテリジェンス大国である。日本で新首相が就任すると、その人物が過去に北方領土問題やロシアとの関係でどのような発言や行動をしてきたかを徹底的に調べる。菅氏に関しては、市民派の政治家で北方領土問題に熱心に取り組んだ履歴がないことを押さえている。それだから「許し難い暴挙」という発言は、強い政治的信念に基づくものではなく、ポピュリズム的思惑による虚勢と考えた。
ロシアは、日本の国民感情を熟知している。昨年十一月一日、メドベージェフ大統領が国後島を訪問したことについて日本人が「許し難い暴挙」と怒っていることもよくわかっている。大統領の国後島訪問から一二日後の十一月十三日に横浜で日露首脳会談が行われた。その席で、菅首相がメドベージェフ大統領に直接、「あなたの国後島訪問は許し難い暴挙だ」と言ったならば、今年二月七日に菅首相がこの言葉を繰り返したとしてもロシア側は激しい反応をしなかった。日露首脳会談で、淡々と双方の立場を述べ、握手をしたということは、外交の常識ではメドベージェフ大統領の国後島訪問について一応「手打ち」がなされたということになる。それを三ヵ月後に蒸し返した菅首相は外交ゲームのルールにあえて違反したとロシアは考えたのである。こういう菅首相に指導される日本はロシアにとって脅威になるとメドベージェフ大統領は認識したのだ。
脅威は意図と能力によって形成される。日本の自衛隊の能力と日米同盟を考慮すれば、日本はロシアにとって脅威となる能力を持っている。ただし、東西冷戦終結後、日本はロシアを攻撃する意思を持っていない。それだから、日本はロシアにとって脅威ではないと評価していた。