解散・総選挙の勧め

臨床政治学  永田町のウラを読む
伊藤惇夫(政治アナリスト)

有権者は菅総理、民主党を見放し、もはや野党にすら期待していない。事態打開のためには政界再編しかないのでは? ならば解散・総選挙という暴挙も意味があるかもしれない

 拙稿が読者の目を汚すころには、どのような政局が展開されているか、現段階では予想不能だし、そのころにはもしかしたら「菅機能障害」も除去される"目途"が付いているかもしれない。が、敢えて断末魔の菅総理にいいたい。菅さん、後世に名を残したいなら、解散・総選挙という暴挙に打って出てみたらどうですか?

 総理の座に就いたものの多くは、自分の手で解散・総選挙を打ってみたい、という欲望にかられるらしい。実は日本の総理大臣には、諸外国と比べても、かなり強大な権限が与えられている。周りがどれほど辞めてほしいと願っても、本人が頑張る限り、誰もクビにできないという現状を見ても、それは明らかだろう。

 その強大な権限の中でも、最大級の権限が、実は解散権だ。なにしろ、総理はいつでも、それこそ気が向いた時に衆議院を解散できる。つまり四八〇人の衆議院議員に対し、生殺与奪の権限を握っていることになるからだ。人間は誰しも、自らが手にしたスーパーパワーを使ってみたいという誘惑にかられるもの。

 菅総理とて例外ではないはず。と同時に菅総理が追い詰められつつある状況の中で、解散・総選挙を模索したことは間違いない。

 被災地での地方選挙が十二月三十一日まで再延期になったこと、三月に最高裁が一票の格差について「違憲状態」との判断を下したことなどを考えれば、もちろんこの時期の解散・総選挙など「暴挙」であり「非常識」であることはいうまでもない。それでもなお、解散・総選挙を勧めるのは、今の政治状況が、それくらいのことをやらなければ打開できないほどの閉塞状況に陥っているからである。

 世論調査が必ずしも絶対でないことはいうまでもないが、それでも各種の調査データから読み取れるのは、多くの国民が、今やこの国の政治に対して激しい絶望感を抱いているということ。菅政権、民主党への支持が急速に低下しているのは当然だが、一方で「受け皿」であるはずの自民党への期待感も全くといっていいほど高まっていないことが、そのあたりの国民感情を明確に物語っている。与野党を通じた震災後の政治の迷走ぶりは、目を覆うばかり。このままの状況が深化すれば、国民は今の政治を見放し、ついにはニヒリズムの中で、歪(いびつ)で危険な英雄待望論に傾きかねないという事態まで想起させる。

 だが、もしも菅総理による解散・総選挙という「暴挙」が実現すれば、もしかしたらそうした危険な状況から抜け出せるかもしれない。もちろん、これは極めて逆説的な意味でいっていることだが......。

 仮に菅総理が解散・総選挙に踏み切ったとする。当然、民主党内は騒然となるだろう。なぜなら、菅総理のもとでの総選挙となれば民主党の惨敗は必至。それがわかっていながら「座して死を待つ」わけがないから、小沢グループは当然として、その他の多くも選挙前に離党し、新党で選挙に臨む可能性が高い。

 一方の自民党も決して一枚岩ではない。いまだに続く派閥のボスや長老による支配に対する反発が中堅・若手の間に蓄積している。「自民党は一度、解体しないと本当の意味での再生はない」と明言するものも少なくないというのが実態だ。民主党が分裂すれば、これに触発される形で自民党も割れる可能性は十分にある。

 となれば、その解散・総選挙が結果的には政界再編のきっかけになるかもしれない。もちろん、従来通りの政権獲得を目指した数合わせに終わる確率の方が高いだろうが、それでもやってみるだけの価値があるのではないか。もしかしたら、「瓢箪から駒」のように、政策や理念、国家ビジョンなどによる「ガラガラポン」が行われるかもしれないからだ。

 消費増税、TPP参加、税と社会保障の一体改革、脱原発......、唐突に大テーマを提起しては捨て去って、次なるテーマを掲げるという就任以来の菅総理の言動からは、なんとか後世に名を残したいという願望が強烈に伝わってくる。まあ、すでに「史上最低の総理」という「名」を後世に残すことは確実だろうが、ここでもうひとつ、「政界再編へのきっかけをつくった総理」という"実績"を上積みしてはいかがか。歴史に名が残ること確実だとおもうのだが。

(了)

〔『中央公論』2011年9月号より〕

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