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現政権が停滞している本当の理由

時評2011
牧原 出(政治学者)

 二〇〇九年に民主党政権が成立してから、二年が経過しようとしている。この間「マニフェスト」を通じ、諸々の構想が提示された。子ども手当、高速道路無料化、農家の戸別所得補償制度が典型である。だが、統治機構改革が花盛りであった一九九〇年以降の歴代内閣と比べて、制度改革は全くと言っていいほど進んでいない。国と地方の協議の場が法制化されたのが数少ない例であろう。もちろん、関係法案は国会に提出され、参議院が与党少数であることが停滞の要因だとも言えるが、政権が機構改革に対して、不退転の決意で臨んでいないのも明らかである。制度改革なき政権交代こそ民主党政権の特徴である。

 他方、自民党政権にとり、統治機構改革は政権維持の本質をなしていた。自民党結党時の第三次鳩山一郎内閣が進めた「トップマネージメント」の行政改革、一九六〇年代の池田勇人内閣の第一次臨時行政調査会、一九七〇年代の環境庁・国土庁の設置、そして一九八〇年代の第二次臨時行政調査会と臨時行政改革推進審議会、一九九〇年代の政治改革・省庁再編・司法制度改革の統治機構改革である。

 政権党であるために、制度運用の限界を機構改革によって乗り越える必要があったことが理由の一つである。それはまた自民党政権を支えた官僚制にとっても、政策革新のために必要であり、いずれの改革でも、改革を推進する官僚集団が制度設計に尽力していたのである。

 さらに、第二次臨時行政調査会を発足させた中曽根康弘が、改憲運動を推進していた岸信介に書簡を送り、「国民的舞台」において「軌道設定」を行うと宣言したように、行政改革は憲法改正の代替手段であった。自民党は、結党時の主流派であった民主党系の鳩山一郎や岸信介の信条に基づき、改憲を党の基本方針としていた。他方で、自由党系なかんずく吉田茂の影響下にある池田勇人、佐藤栄作らは憲法改正に消極的であった。両者を中和する手段こそ、行政改革だったのである。

 こうしてみると、自民党政権下での制度改革は、官僚制と自民党内諸派閥とが複雑に結びついた政権の自己改革運動であった。「この国のかたち」を変えようという行政改革会議による省庁再編、それに引き続く司法制度改革は、その集大成であった。省庁再編の成果を全面的に吸収した小泉純一郎政権下の経済財政諮問会議と官邸主導の政策形成は、この意味での自己改革運動の到達点なのである。

 これに対して、民主党政権は、発足当初から政治主導関連の改革を目指したが、法制化には積極的でなかった。むしろ運用面でラディカルな改革を図ったといえる。だがそれも、次第に穏当なスタイルに変わっていった。鳩山首相は政務三役による政策決定の徹底化を目指したものの、菅直人内閣下では官僚との協力が重視され、震災後の復興局面では、自民党政権下の有力大臣の手法と同様に、官僚が動き要所を大臣が締めるスタイルこそが功を奏している。

 なぜ、かくも民主党政権は制度改革に不熱心なのだろうか。改憲を党是とした自民党と異なり、民主党政権の出発点である「政権交代」と「政治主導」は、日本国憲法が当初想定した姿だった。と同時に、ねじれ国会も現行憲法の想定内の事象である。現在の政権は、いかにそれが停滞と見えようと、日本国憲法の帰結なのである。民主党政権は、日本国憲法という「戦後」の出発点へ立ち返ったのである。

 したがって、その姿は、一面では新憲法公布後の最初の総選挙後に成立した片山哲・芦田均内閣のような「中道」政権下の停滞に近い。だが他面では、政治に赤裸々な主導性を排し、現行憲法を強く擁護して、制度の自然な運用を心がけた宮澤喜一にも近い。「中道」政権は経済自立を果たせず、吉田茂内閣のデフレ緊縮予算への転換を余儀なくされた。また宮澤内閣は、政治改革に対応し得ず、細川護煕内閣の成立によって、自民党長期政権の終焉と連立政権の時代を招いた。

 憲法の趣旨を徹底するならば、本来必要なのは、強力な政治統合を果たす政党の組織化である。占領期には吉田自由党であり、一九九〇年代には、武村正義ら新党さきがけを介した自社さ連立政権がその役目を果たした。民主党の再建は、前者の路線である。後者の路線の場合、細川や武村が知事出身であったように、政治力のある首長が、次期政権の組織化を果たすかもしれない。この二つの道がついえたときこそ、政界大再編への突入なのではなかろうか。

(了)

〔『中央公論』2011年9月号より〕