悲惨な財政赤字を解決できない真の理由
予算審議の季節である。例年のことだが、今年は特別だ。何といっても、消費税の増税を含むいわゆる一体改革が控えているからである。
GDP比にして二〇〇%を上回る財政赤字の山。あのギリシャさえ上回るひどさである。そして、毎年の予算のうち半分近くを借金に頼らねばならない窮状。どう考えても、何かしらの抜本改革が不可欠だ。
むろん、自民党も民主党も「バラマキ」型の政治を続ける一方で、それに見合う税収確保を避けてきた結果だ。しかし一体、そうさせたものは何なのか。管見では、日本国には「ものごとを決め、実行するための仕組み」が明確に存在していない。これこそが問題の本質である。総選挙での国民の選択は的確に実行され得ないのだといっても良い。
例えば政府と民主党は、消費税と一体改革をめぐり自公両党を始め野党に対して、再三にわたって協議のテーブルにつくように要請している。それに対して、自民党の谷垣総裁らは、「与野党間の事前協議は『談合』だ」として拒絶している。確かに一理ある。国会での徹底的な審議が基本だからだ。
しかし、真に残念ながら、実際に予想される展開は全く違う。通常国会が始まり、二十四年度予算が仮に三月で仕上がったとしても、一体改革についての本格的な審議にはなかなか入らないだろう。その前さばきのような位置づけになる国会議員の定数削減や議員歳費の削減、公務員給与削減と労働基本権の扱いなど、いわば増税の前提条件をめぐる法案について、延々と日程闘争が繰り返されるに違いない。審議や討論ではなく、引き延ばしである。
確かに、民主政治では話し合いは重要だ。しかし日本の国政では、事実上、無限の話し合いが続きかねない。そしてそれは、参議院で過半数を占める野党の強力な武器となる。「我々の要求を呑まないなら、勝手にすれば良い。その代わり、法案は全てストップだ......」。これが「ねじれ」の意味である。少なくとも法律の制定や修正が必要な場合、物事を決める主体も、決め方も全く宙に浮いてしまうのである。
この問題がもっとも鮮明な形で出てくるのが予算関連法案であり、その中でも特例公債法案と消費税増税法案だ。これらは衆議院の優越事項とされる予算に密接に関連している。しかしれっきとした「法律」で、つまりは、事実上参議院が拒否権を持っているのである。菅首相は、実質的に特例公債法の成立と引き換えに首を差し出した。それほど強烈な問題なのである。
予算は、政府の財政資金、つまりは税金などで集めたお金を、どのように使うかを決めるものだ。これはいわば大枠の中での管理の問題なので政府に編成権がある。しかし、税金の徴収は国民に義務を課す、より根本的な問題である。従って、法律という形で、国民の代表者が集まった議会が決定する。この組み合わせはどこの国でも同じである。
問題は、議会による議決をどこまで細かく要求するかで、例えばイギリスでは、既にある税金についてその税率を変更することはごく簡便に行われる。事実上、政府が議会に動議を出すことによって一〇日後には成立する。消費税の引き上げができず、その結果、毎年巨額の赤字公債を発行せざるを得ないという、ここ一五年ほどの日本での大問題に対して、イギリスでは全く異なる対応が可能なのである。
概して英仏などでは、税率の変更などはかなり容易であり、多年度の予算編成方式も導入されている。他方で、決算や政府活動の調査・統制などの面で議会の関与が強められている。つまり財政に関しては、予算審議という形での議会による事前の統制はやや柔軟にされ、代わりに決算などの事後統制が強化されているのである。
それに対して日本の国会では、ここ半世紀の間、こうした改革が全く進められなかった。野党の影響力が大きく、対立案件では迅速な決定ができない。政府は国会の内部にほとんど手出しができず、逆に参議院の影響力は不釣り合いに大きい。この国会と財政のルールが組み合わされた結果が巨額の財政赤字である。
つまり日本国では、国民の負託を受けた衆議院の多数派と政府が政権公約に基づいて責任をもって決定し実行するという骨格が崩れてしまっているのである。むろん、政党のガバナンスも、リーダーの資質も重要だ。しかし、この屋台骨の再建こそが何にも増して肝要なのである。
(了)
〔『中央公論』2012年3月号より〕