橋下徹大阪市長は"壊し屋"を超えられるか
橋下大阪市長の「快進撃」が続いている。大阪維新の会の国政進出に向けた候補者の公募には、三〇〇〇人以上が応募したと伝えられている。また、次期衆議院選挙に向けた公約集として「船中八策」も発表した。参議院の廃止を始め、非常に荒削りではあるが大胆な提案が含まれている。また、ある世論調査によると、橋下新党に期待するという回答は、近畿圏に止まらず全国的な広がりを見せている。
多くの国民は漠然とではあるが大きな不安と不満を抱えている。「民主党と政権交代に期待してみたが、全くの期待はずれだった。なぜこの国には既得権を打破し変革を本当に実行する勢力が現れないのか」と。かくて橋下氏への注目は、既存政党への不満・不信と政治全般への深刻な停滞感の裏返しに他ならない。
一体、政党とは何なのか。日本の政党の根本的な問題は何なのか。今やこうした問いかけが避けられない。民主党や自民党に大きな課題が残されているのは明らかである。民主党は、野党として政権を批判することには長けていたが、統治を担う政党には脱皮できていない。マニフェストも後退に次ぐ後退だ。TPPや消費税の増税をめぐっても、党内は一向にまとまりそうにない......。
一方自民党も、まるで野党時代の民主党と何も変わらないかのようだ。崩壊し果てた派閥システムに代わる新しい党内のガバナンスは、いつになったらできるのだろうか。
しかし実は、この問題は大阪維新の会にとって最も深刻である。確かに、橋下市長の勢いはすさまじい。次期総選挙でも相当な数の国会議員を生み出す可能性もある。しかし、それが単に橋下氏の主張をオウム返しに唱える「チルドレン」だとするならば、国会の仕組みを破壊することはできても、建設的な役割を果たすことにはならないだろう。
政党というものは、単に選挙をめぐって候補者をリクルートし、有権者へ働きかけて動員するための組織ではない。時間をかけて人材を養成し、多角的で濃密な議論を積み重ねることによって政策を練り上げねばならない。さらには、党機関としても、また選出された国会議員の集団としても、意思決定を行い、国民に対して説明し、結果に対して責任を取れる統合力を持たねばならない。
一見したところ、もっとも簡単なやり方は、一人のリーダーによる決定であり実行と説明だ。確かに、唯一の巨人によるリーダーシップは、戦争や重大な危機の時には必要だ。近代以降、これを最も的確に実行してきたのは議院内閣制の母国とも言えるイギリスである。
しかし他方で、多くの発展途上国でのデモクラシーの失敗もこのパターンである。この両者の違いを分けるものは何か。それが議会であり政党である。議会が単なる追認機関に成り下がり、政党が単にリーダーによって動員され、彼のために「翼賛」する組織に過ぎなくなれば、強いリーダーシップは早晩変質し崩壊する。ナチスのような怪物や、フセインや金正日による抑圧体制がその結末なのである。
橋下氏は、「船中八策」において「決定できる民主主義」という考え方を掲げている。そのこと自体は、私も全く同感である。しかし、「独裁」もいとわない彼の姿勢には、議会と政党への本質的な軽視・蔑視が少なからず見え隠れする。このことの意味を、国民はよく考える必要がある。
民主主義は、根本的なところで手間と時間のかかる仕組みだ。国民の代表者が数百人も議会に集まって、彼らの合議によって重要な方針やルールが決定される。立法である。大統領制は、その上で行政の執行を一人のリーダーに委ねる。そして同時に、行政と立法の間には相互のチェックと抑制を効かせる仕組みだ。他方で議院内閣制は、内閣の仕組みによって合議の要素を取り入れつつ、全体としては立法と行政を連結・融合させることによって、機動性と統合性を高めようとする仕組みである。しかし肝心なことは、まともな自由民主主義体制というのは、いずれにしても健全な議会抜きには成立しないということである。
そして政党とは、この議会という複雑な合議機関をスムーズに機能させ、国民の代表機関としてしっかりと働かせるための鍵を握るツールなのである。強いリーダーもいい。決定できる民主主義も必要だ。しかし、それが「船中八策」に十分な形で結実しているとは言えない。そう、ここからが本当の競争なのだ。
(了)
〔『中央公論』2012年4月号より〕