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時間に翻弄される政治

時評2012
野中尚人(政治学者)

 時間には様々な顔がある。私には、宇宙物理学における時間の意味は全くわからない。しかし、政治にとっても時間という要素が極めて重要だということは確かだ。

 現代という時代は、多様性とその変化の速さという点で際立っている。他方で、どの国にも、現在の政策判断や行動が過去の経験や制度的な蓄積に左右される側面がある。これを経路依存と呼んでいるが、いわば、過去という時間が現在と未来を縛っているわけである。

 時間はますますその流れを速め、グローバル化が世界的な一種の標準化を要求している一方で、それぞれの国が持っている政治時間の固有性が交差する局面にある。これが我々の置かれた政治時間の枠組みだ。

 通貨や国際金融の分野におけるスピードの速さについては、今や知らない人はいないだろう。TPP交渉も、昔のオレンジや牛肉の輸入自由化をめぐる日米交渉に比べて、はるかに迅速な対応が必要となっている。日本のように、じっくりと合意形成を図るという政治スタイルは不利な面も出てくるかもしれない。

 また、その時々における決断と実行という面も重要だ。同じ決定をしたつもりでも、時機を失することがある。一九九一年の湾岸戦争に際して、日本は臨時増税によって捻出した一兆円を上回る巨額の資金提供を行ったにも拘わらず、後手後手の対応がその効果を打ち消してしまった。つまり決断というのは、その内容だけでなくてタイミングが重要なのである。

 この点で、昨今の消費税をめぐる論争は興味深い。私の見るところ、消費税の増税が長期的にも不要だと主張している人はごく限られている。しかし反対派は、様々な条件を挙げて結局は決定の引き延ばしを狙っている。そして、彼らの真の目的の大半は、政局での主導権確保である。

 この論争をめぐる状況には、日本的な政治の時間、特に戦後の五五年体制の中での時間の枠組みが依然として色濃く反映されている。つまり、決定のプロセス自体が長く、容易に引き延ばされて「非決定」に陥ってしまうことである。新しい決定はとにかく難しく、それを止める仕組みが異常なまでに発達している。反対派は止めながら影響力を強め、政治的な立場を強める。このやりとりの中で、時間という要素は限りなく軽視されてきたのである。

 むろん、冷戦が終わり、経済のグローバル化が進行し始めた一九九〇年代以降、徐々に変化はしてきた。自民党の分裂や小泉政治、二〇〇九年の政権交代などいろいろとある。しかし、今に至っても、多くの政治家のメンタリティは、以前とあまり変わっていないようだ。

 その変化していないメンタリティを反映する典型が国会である。話し合いが重要なことは当然だが、一体何をどのように審議し、決定しているのか、極めて不透明だ。透明なルールに基づく話し合いや討議というよりも、裏取引と駆け引きではないのか。両者の違いは、国民に対してしっかりと説明されているか否かだ。

 政治には、話し合いと交渉の時間は必要である。しかし同時に、決定を実行する時間も不可欠である。この二つの時間の間のバランスが、現在の日本の政治では決定的に崩れているのではないだろうか。

 これをもたらしているのは、五五年体制からの慣行であり、制度の継承という意味での経路依存だ。特に、衆議院と参議院の関係は、法律の制定という最も根幹の問題について、ねじれた場合には、いわば決定のための仕組みを持たないままに永久の交渉を要求する形になっている。これが適正であるはずはない。

 さらに、こうした永久の取引という政治スタイルの結果、政治家、特に政府に入った政治家は極端に多忙になる。「大臣を国会に張り付ける」という表現がよく使われる。また、日程闘争、審議拒否など、全ては時間を空費させ、政府にいる政治家を時間的に追い詰めることを狙っている。こうして、「ドブ板」重視の選挙と相まって政治家は考える時間を失ってしまったのではないか。

 戦後日本での政治の時間を煎じ詰めて特徴づければ、「止まっていた」。主要な政治勢力の間の関係が安定し、政策体系が継続する中で、同じことを同じように繰り返すことが多くなっていたのである。しかし結局のところ、時宜を得た政治決断をするのも、時間を操るのも、そして時間に翻弄されるのも政治家と我々有権者の判断にかかっている。これを改めて認識すべき時が来ている。

(了)

〔『中央公論』2012年5月号より〕