密閉国家の"安定政権"と日本は対峙できるのか

時評2012
野中尚人(政治学者)

 みじめな大失敗に終わったミサイル発射実験は、北朝鮮がいかに非常識な国家であるかを改めて思い知らせてくれた。経済的にやせ細ったこの国が、飢えに苦しむ国民を尻目に核とミサイルの開発に狂奔する姿は異常としか言いようがない。

 ところで皆さんは、北朝鮮の正式名称、「朝鮮民主主義人民共和国」をご存じのはずだ。この名称は、ある意味で非常によくできている。民主主義はその通りだが、朝鮮はナショナリズム、そして人民共和国は左翼共産主義系の共和主義を表している。どれも、北朝鮮が建国された当時で言えば、いわば先進的な考え方であった。そしてしばらくの間、北朝鮮という国家はそれなりに運営され、近代化の一つのモデルとさえ見なされたこともあった。

 しかし、今の北朝鮮を見て、住みたいと思う人はまずいないだろう。餓死者が続出する悲惨な経済状態に加え、世界から孤立し「ならず者」国家と言われる。国民は、何か起こるたびに(全く心ならずも)動員され、指導者を礼賛するふりをさせられる。自分に対する抑圧者を称賛させられることほど、自由の剥奪を感じさせるものはないに違いない。にもかかわらず、新しい「指導者」は、それこそあっと言う間に国家・党・軍の最高指導者の地位に就いた。まさに独裁者である。

 北朝鮮の国家名称に掲げられた考え方のうち、民主主義は誰にも否定できない金看板であるが、実はその内実は多種多様である。多様な民主主義の意味を突き詰めれば、選挙における平等な一票ということになるが、これも政治的な自由が存在しないところでは、簡単に消滅してしまう。投票率が九九・九%、得票率が一〇〇%という報道を見ると、北朝鮮という国が、本当の意味での選挙や民主主義とは全く縁がないことがわかる。

 もう一つの人民共和国という考え方もやっかいだ。共和国というのは、昔の絶対君主国家に対する反対概念で、国というのは一人の独占物ではなく共有物だ、という考え方である。いわば「みんなのもの」ということになる。

 しかし逆に、すべての人民が主権者という建前は、非常に簡単に暴走してしまう。古くは、フランス革命の際に、人民の名の下に大量の虐殺が行われたことが知られている。「バンデ反乱」あるいは「バンデ虐殺」である。この場合の人民主権とは、人を殺すことも含めて、ありとあらゆることが人民の名の下に可能となることを意味している。

 この暴走に歯止めをかけるのが「立憲主義」である。立憲主義とは、主権者であってもやっていいことといけないことがある、ということであり、憲法や基本的人権という考え方がそれを象徴している。

 ところが北朝鮮では、立憲主義は全く顧みられず、人民の名においていまだに何でも可能である。そしてその人民主権は、あらゆる抑圧の装置と偽りのレトリックを通じて、不幸にも、自らを抑圧する独裁者への全権委任へと変わり果てているのである。

 弱冠二十九歳の独裁者に、一体どのような能力があるのかはわからない。しかし、スイス留学中の学業成績を見ても、とても天才とは言えない。独裁の実態は、側近集団と既得権益集団による体制維持に過ぎないとも考えられよう。

 しかしいずれにしても、「金王朝」と揶揄されるように、金日成・正日から続く支配は、一九四八年の建国以来途切れることなく、六〇年を超えている。昨年以来、「アラブの春」として知られる中東・北アフリカ地域での民主化の動きで倒されたエジプトのムバラク政権(三〇年)や、リビアのカダフィ政権(四二年)をも上回っているのである。

 他方、日本の側は、ほとんど毎年のように首相が交代する状況である。これでは、国益に沿った外交を展開するのは極めて難しい。重要な懸案を解決するためには首脳による交渉と決断が欠かせないが、日本の場合、事実上それが不可能なのである。

 北朝鮮は、ミサイルの発射が失敗に終わった以上、次は核実験で威信を回復させようとする可能性が大きい。しかし北朝鮮の問題は、こうした好戦的で異常な行動だけではない。必ず破綻するこの異常な国家経営がいつまで続くのかわからないことにも十分な注意が必要である。

 つまり、北朝鮮をめぐっては、あらゆるタイミングでの様々な非常事態が想定されねばならない。日本の総合的な外交力が試されるのである。

(了)

〔『中央公論』2012年6月号より〕

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