悪しき国会至上主義が日本を滅ぼす
消費税政局が一応の収束を見た今、関心は急速に解散・総選挙へと移っている。野田・谷垣会談によって、「近いうちに信を問う」こととなり、十月解散が取り沙汰されている。
こうした中で、橋下氏の率いる大阪維新の会が注目を集めている。最近の世論調査によれば、維新への支持は関西圏を超えて全国規模に広がりつつある。民主党の壊滅的な後退や伸び悩む自民党とは対照的である。
維新の周りには、何とか生き残りたいと「方舟」にでも乗るかのような行動をとる現職議員たち、あるいは「一旗揚げよう」と考える人たちが蠢いている。「維新八策」を掲げ、それへの賛同を軸とする構想らしいが、政治の実態はとてもそんな生易しいものではない。
いずれにしても、日本政治の抱える問題は相当に深刻である。しかし、民主・自民両党が政権交代を経験した今、冷静に分析すればいくつかの鍵が読み取れる。
批判を承知で敢えて言えば、日本の統治機構は、議院内閣制として正常に機能するための骨格としての条件を著しく欠いている。予算の裏付けとなるべき財源さえ野党がストップできるということでは、まともな政権の運営など望むべくもない。
議院内閣制は、議会第一院の多数派が政府を構成し、その支持の下に予算や法律が決められ、政府が運営される仕組みである。この仕組みをうまく機能させるためには、二つの柱が極めて重要である。一つは議会内の運営ルールで政府に一定の権限を持たせることである。議院内閣制では、予算はむろん、立法の八割程度はどの国でも政府提出法案であるため、この議題設定権能がないと政権運営は非常に難しいからである。
もう一つは、政策的にまとまった方向性を持ち、政策や意思決定の手続きが整備され、党議拘束が必要な時にはそれが機能する政党の存在である。そのためには実は、特にしっかりとした地方組織が重要である。
ヨーロッパの主要な国々を見ると、この両者を保持していると言えるのがイギリスとフランスである。ドイツは、政府の議題設定権能は弱いが、強力な政党規律(そして首相に与えられた強力な権能)でそれをカバーしている。この両方がないのがイタリアであり、日本である。
英仏両国では、政府提出法案はその審議日程をほぼ政府が設定し、議会で提案された修正案についても、どれを受け容れ、どれを排除するのかということまで含めて政府が決定できる。ところが日伊両国では、これらの権能は皆無である。日本の国会では、政府法案は、一旦提出されると政府から修正をすることができない。法案を撤回するのさえ、国会の同意が必要である。
日伊両国では、政権与党の党内規律が弱体なことも共通している。派閥や議員の個人後援会組織への依存体質は、残念ながら現在に至るまで解消されていない。
上で挙げた二つの基本条件を欠いた結果、イタリアでは緊急事態用の政令を通常時に濫用し、それもうまく行かなくなると、極めて広範な委任立法によって、立法権限を政府に移譲する方向へと「転落」して行った。まさに議会が自らの役割を放棄する破滅的な対応である。それらの機能不全の結果が、日本と同様の頻繁な首相の交代と、さらには専門家内閣という名の変則的な結末を招いていることは否定できない。
自民党政権は、ある意味で奇跡的な「裏システム」を構築してそうした制度的な欠陥を乗り越えてきた。与党と政府の間での事前審査と、与野党間の国対政治である。
一見逆説的だが、議会の自律権が過度に強調されるため、政府の運営には大きな支障となってきたのである。しかも、与野党間の話し合いを基軸とする国対政治を長年にわたって続けた結果、野党にとって有利な仕組みや慣行が国会の内部に張り巡らされてきた。
日本の国会は、さらに二院間のねじれの問題も抱えている。自民党政権は、衆参両院の多数を単独で維持し続けるという「離れ業」で何とか乗り切ってきた。しかし今や、どの政党が選挙で勝っても、誰に率いられていようとも、政権運営は極めて難しい。
結局のところ、二院制の問題を含め、この「悪しき国会至上主義」から脱却しない限り、日本の政治を正常化するのは極めて難しいのである。
短期間の大連立を組んででも、こうした根本問題に取り組むことが責任政党としての最小限の使命ではないだろうか。
(了)
〔『中央公論』2012年10月号より〕