橋下発言にみる「本音」と「建前」

時評2013
村田晃嗣

 いわゆる従軍慰安婦問題をめぐる橋下徹・大阪市長(日本維新の会共同代表)の一連の発言が、国内外で大きな波紋を呼んでいる。ここでは、橋下発言の内容そのものではなく、その根底にあるであろう発想について、戦後日本を代表する三人の政治学者の発言を引きながら吟味してみたい。

 一人は丸山真男である。意外にも、この代表的な「進歩派知識人」は、日本社会に「偽善」を勧奨している。「偽善にはどこか無理で不自然なところがある。しかしその無理がなければ、人間は坂道を下るように動物的『自然』に滑り落ちていたであろう」、「偽善は善の規範意識の存在を前提とするから、そもそも善の意識のない状態にまさること万々」と説く。丸山は「政治こそは高度の演技の世界」と見ており、「偽善」がこの「演技の世界」を支えているとしている(以上については、苅部直『ヒューマニティーズ政治学』に詳しい)。

 神ならぬ人間は善になりきれないが、獣とも異なる。「偽善」は人間にとって本質的な営みであり、それ故、「偽善」に習熟することが政治にも必要だというわけである。つまり、「偽善」には己を疑う精神や他者との関係を推し量る感性が内包されている。その点で、「偽善」は「独善」とは違う。後者には自己懐疑や他者への感受性が欠けている。

 次は、猪木正道である。長らく防衛大学校校長を務め、のちに財団法人平和・安全保障研究所を設立して、日本の安全保障研究を確立した(因みに、丸山も猪木も第一次世界大戦の勃発した一九一四年の生まれである)。猪木はアメリカの国際政治学者ズビグニュー・ブレジンスキーと親しかった。そのブレジンスキーがジミー・カーター政権で国家安全保障問題担当大統領補佐官に起用されると、猪木は書簡を送っている。

 当時、カーターの提唱する「人権外交」に懸念を抱く外交・安全保障の専門家は少なくなかった。人権を普遍的に追求すればアメリカの重要な同盟国や友好国(例えば、イランや韓国)と摩擦を生じるからである。だが、猪木は「人権外交」を高く評価していた。なぜなら、人権問題こそソ連と共産主義陣営にとって弱点であり、敵の弱点をつくのは戦略の常道だというわけである(詳しくは、拙著『大統領の挫折』を参照されたい)。戦略的思考の神髄であろう。

 そして最後は、高坂正堯である。猪木の系譜に連なる、「現実主義者」の代表的論客であった。日本国憲法の前文について、高坂は興味深い指摘をしている。自分は改憲論者ではないと断った上で、しかし、前文の「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という表現には修正が必要かもしれないと、高坂は言う。「公正と信義に」と「信頼して」の間に「ちょっとだけ」を加えるべきだというのである。高坂一流のユーモア感覚だが、やはり核心をついている。諸国民の公正と信義に信頼しきって生きていけるほど国際政治は甘くはないが、かといって、単なる弱肉強食の世界でもない。そこに一定の規範や正義、秩序は存在する。これらを無視し去ることも「現実的」ではない(この点については、拙稿「若い世代の改憲論」『中央公論』二〇〇〇年六月号を参照)。

 ここで紹介した三人の碩学は、それぞれ異なるテーマを論じているが、そこには共通の認識があるように、筆者には思われる。それはシニシズムへの警鐘であり、「現実」の多様性への理解であり、そして、「本音」と「建前」との緊張感への洞察である。

 「本音」と「建前」は対概念であり、一方を欠いては他方も成立しない。しかも、「建前」が変化するように「本音」も変化していく。両者の距離も常に一定ではない。若者の間で「ぶっちゃけトーク」(「本音」で語り合うこと)が流行るのは、この距離感をとる能力が低下しているからである。十代や二十代の若者ならともかく、国政を左右する政治家がそれではいけない。「本音」との関係を意識しながら「建前」を堂々と説くのが丸山の言う「偽善」である。「建前」を擲って「本音」だけに溺れれば「独善」になる。そこには猪木の説いたような戦略感覚も高坂の示した複眼思考もない。坂本竜馬といえば、「日本維新の会」ならぬ、明治維新の生みの親である。その竜馬が最後に頼りにしたのは、日本刀でも短銃でもなく万国公法(国際法)の書物であったという。なにも「学者先生」だけではない。一流の人士は「建前」(規範)の重要性を熟知しているのである。


(了)

〔『中央公論』2013年7月号より〕

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